聞こえないものが聞こえるまで–––Triad God『黑社會Triad』

トライアド・ゴッドについての情報はあまり存在しない。本名がヴィン・ガン(Vinh Ngan)であること。香港/ヴェトナム系で、ロンドンで生まれ育ったこと。2012年に<Hippos in Tanks>からデビュー・アルバム『NXB』をリリースして一部の音楽ファンからカルト的な人気を得たものの、昨年に至るまで7年ものあいだまとまった活動を行っていなかったこと。いくつかのMVに出演してはいるが正式なアーティスト写真は少なく(本作のジャケット写真をよく見れば、それが前作のジャケット写真と同日に撮られたものの使い回しであることがわかる)、インタビューはDAZEDが一問一答方式で行った短いものが1つあるきりで、人となりはわからない。普段何をして生活しているのかもわからない。

おまけに彼は広東語でラップしていて、わずかに使用されている英語(や日本語)を除けば、彼が何を言っているのか、多くの人々には理解できない。もちろん香港やマカオの住民には理解できるわけだが、本作『黑社會Triad』(2019)はイタリアを拠点とする<Presto!?>からリリースされていて、そもそも広東語圏を主要なマーケットにはしていない。彼自身もおそらく自分の言葉が聴き手に通じるとは端から思っていない。4曲目の「Gway Lo」(この曲名は外国人、特に白人に対する広東語での時に侮蔑的な呼称「鬼佬」のことであるらしい)における「Rapping is a lifestyle / Do you know what the fuck I’m saying?(ラップはライフスタイルだ/俺の言ってることがわかるか?)」という数少ない英語詞には、聴き手を挑発するヒップホップの常套句としての役割のほかに、自分の生活言語を理解する人間がいるのか問いかける、文字通りの意味も込められているように思える。

そのようなタイプの音楽にマイノリティの不安や怒りを読み取るのはたやすい。だがトライアド・ゴッドの一番の魅力はそのような社会的・政治的な解釈とは基本的に無関係なところにある。それは彼の声のトーンだ。北京語と比べて抑揚の少ない広東語の、途中で途切れてそのまま中空を漂っているような声。午前3時の自室で呟くような、本当なら誰にも聞こえるはずのなかったかもしれない声。トライアド・ゴッドは陳冠希(エディソン・チャン)と2パックをリスペクトしているようだが(前作の収録曲「I Never Told You」は陳冠希の同名のヒット曲を基にしている)、彼のやっていることは多くの場合ラップにすら聞こえない。そこからは誰かに何かを伝えようという覇気のようなものが欠落していて、芸術(art)作品に付随すべき作為性(artificiality)がほとんど感じられない。たった一人でひとつの音楽ジャンルを定義してしまうようなその独自性の高さは、『Space Is Only Noise』の頃のニコラス・ジャーや、(FACTマガジンが指摘しているように)シャッグズのことを思い起こさせるほどだ。

孤独を音に変え、孤独について歌った曲はポップ・ミュージックの世界において古今東西枚挙にいとまがないが、その大多数は孤独そのものというより、孤独がもたらす情緒(悲しみや苦しみや苛立ち、あるいはそれらと対置されるべき愛の存在・不在など)についての歌である。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』などはそのひとつの精華だろう。だがトライアド・ゴッドの孤独はそれ以前のものだ。それはまだ名前のつけられていない、リアルタイムの孤独で、情緒を飛び越えて一気に人間の実存とその尊厳に対する透徹した見通しに達してしまうような、純粋さと危うさを同時に秘めたいわばドストエフスキー的な孤独である。『ペット・サウンズ』に人の心を動かす美しさがあるとすれば、『黑社會Triad』には人の心を捉える説得力がある。トライアド・ゴッドの声に耳を傾けていると、人間というのは基本的にぎこちない、寄る辺のない存在なのだという当たり前の事実を、改めてひしひしと感じさせられる。

前作から引き続きすべてのトラックを担当しているパルミストリーことベンジー・キーティングが持ち込んでいる要素も見過ごすことはできない––––というより、後で述べる理由から、彼の貢献は単なる「要素」を大きく超えたものなのかもしれない。一聴してわかるように『黑社會Triad』のトラックは宗教音楽の色合いが濃厚だが、キーティングのインタビューによれば、彼は事実アイルランドの教会で生まれ育っている。彼の父親は10代の頃からドラッグがらみの罪で刑務所への出入りを繰り返していたが、やがてキリスト教に救いを見出して自ら牧師となり、無宗派の教会を設立した。父親は自分と同じような境遇の人々を救済することに熱を上げていて、その説法の仕方も過激で奇矯なものだったために、近所からは冷やかな目で見られていた。おかげでキーティングはかなり孤独な少年時代を過ごすことになったようだ。「アウトサイダーであることが今の自分を作った」と彼はFADERに語っている。

2007年、キーティングはギャンブル漬けの生活から足を洗い、ロンドンに移り住んで音楽活動を始める。アルヴォ・ペルトやジョン・タヴァーナーなど宗教的な背景を持つ作曲家たちの影響を受ける一方、ジャマイカ移民が多く住む当地のダンスホール・シーンにものめり込んでいく。そしてMVのロケハンのためにチャイナタウン周辺のカジノを巡っていたとき、彼はヴィン・ガンと出会う。音楽を作っているのだと彼が伝えると、自分はラッパーになりたいのだとヴィン・ガンは告げる。彼らがすぐにキーティングの言う「強い友情」を育んだことも、二人の出自を考えれば想像に難くないことかもしれない。

自身のソロ活動では「ダンスホール・バラード」とでも呼ぶべき比較的ポップな作品を作っているキーティングは、トライアド・ゴッドの前作『NXB』ではもっと「音楽」をしていた––––各トラックがビートによってラップを駆動しているように聞こえる面があった––––が、『黑社會Triad』では大半の曲においてビートを放棄し、ほとんどアンビエントの域にまで希釈している。トラックとラップ(もしくは歌唱)がリズム的に噛み合っているのは「Babe Don’t Go」とそのリプリーズである「BDG」、そしてラストの「Chinese New Year」くらいで、それ以外の曲にはスポークン・ワード的な自由さ(というか独り言的な無秩序さ)が与えられている。そのためにトライアド・ゴッドの声からも前作のような肩に力の入った感じが薄れ、より真に迫った語りを実現することができている……と初めは思っていたのだが。

Vinh just spits, and I’d make music out of his a cappellas. He’d just sing into the laptop mic, and we’d make a track of that.

ヴィンが言葉を吐き出して、僕が彼のアカペラから音楽を作る。彼がラップトップのマイクに向かって歌って、そこから二人で曲を作ったんだ。

The FADERのインタビューから(2012年9月20日掲載)

これは前作のときのキーティングの言葉なので、それがどの程度本作にも当てはまるのかはわからない。音楽を作った後に追加でラップを入れるというようなことも場合によってはあったのかもしれない。しかしトライアド・ゴッドの曲が基本的にはラップから先に作られていることは注目に値するだろう。つまり、トライアド・ゴッドはトラックを聴きながらラップをしていない。むしろキーティングのほうがラップを聴きながらトラックを作っているのであって、これはもはやヒップホップというよりは、トライアド・ゴッドのヴォーカル・サンプルを使ってキーティングが作曲するというテクノ的な手順である。彼らの音楽がジャンル分けを拒む最大の理由は、ひょっとしたらこのあたりにあるのかもしれない。こうした方法によってトライアド・ゴッドの語りは彼自身のパーソナリティの自発的かつ無条件な発露として作品の創造的核心を成しているが、同時にそれはキーティングの視線によって相対化されてもいる。ちょうど映画にサウンドトラックをつけることによって、ストーリーに新たなニュアンスが与えられるように。

上と同じインタビューで、キーティングはこのようにも語っている。

Vinh and I share a love for Hong Kong, a place we’ve both never been. I find inspiration in Wong Kar Wai and Christopher Doyle and Vinh in Andy Lau’s Young and Dangerous films.

ヴィンも僕も香港が好きなんだけど、二人とも行ったことはないんだ。僕はウォン・カーウァイとクリストファー・ドイルに、ヴィンはアンディ・ラウの『欲望の街 古惑仔』シリーズにインスピレーションを受けている。

本作のタイトルになっている「黑社會」とは中国語圏における裏社会のことであり、プロジェクト名にも使われている「トライアド」は香港を拠点とする諸犯罪組織の総称「三合会」の英訳である。90年代には香港の中国返還による取締まりの強化を恐れた構成員たちが多く宗主国たるイギリスへ逃れたというが、トライアド・ゴッドが三合会と何らかの関わりを持っているのかどうかは定かではない。彼が好きだという『欲望の街 古惑仔』は三合会の若者たちの生活を描いたシリーズなので、アイス・キューブが建築製図の勉強をしながらギャングスタ・ラップを書いたように、あるいはリック・ロスが看守をしていたことをすっぱ抜かれた後もその誇大妄想的な狂言を繰り出し続けたように、彼は単に芸術制作上のモチーフとして三合会を利用しているだけなのかもしれない。

ドキュメンタリーであるにせよフィクションであるにせよ、映画的に作られた彼らの音楽は、すべてが一人の人間の声から生まれた「音つきの独白」であるという稀有な例をヒップホップ・シーンに提供している。ヨハネ福音書ではないが、そこにはまず初めに言葉がある。出会ったときのトライアド・ゴッドとパルミストリーがそうだったように、虚飾なく発されるありのままの声は、異なる場所でぎこちなく生きてきた寄る辺のない人間同士を結びつける。たとえ初めは意味がわからなかったり、恐ろしかったり、馬鹿げて聞こえる場合でも、注意深く耳を傾けていると、時にはそこに思いがけず親密さが現れることがある。それはまた私たちが音楽を聴き続ける理由のひとつでもあるのではないだろうか。

※2020/3/11追記 その後、読者の方からのご指摘で見落としていたトライアド・ゴッドのインタビューがあることがわかりました。エディソン・チャンがインタビュアーをしてくれるなら、という条件で行われたこの電話インタビューでは、実はトライアド・ゴッドとキーティングが初めて出会ったのがキーティングの働いていた更生施設だったこと、それ以前の6か月間、トライアド・ゴッドがギャングがらみの抗争で警察に拘留されていたことなどが語られています。しむきょんさん、ありがとうございました。