2022年のベスト・ソング6曲

人の心はダムを作る。悲しいことがあったときに泣いたり落ち込んだりしてしまうのはたぶん本当は素晴らしいことで、もちろん悲しいことなんてないほうがいいけれども、そういうことが付き物の人生であり世の中である以上、必要なときにちゃんと悲しむというのが私たちにできる最善の反応なのだと思う。しかし起こった出来事が強烈すぎたり、まだ幼すぎて事態を把握できなかったり、落ち込むことを恥ずかしく思ったり、人にはさまざまな事情で自分の悲しみをうまく感じられないことがあって、そのような場合、心の中にコンクリートの堤が築かれ、その奥に悲しみが水のように溜まっていくみたいなことが起こる。

コンクリートの向こう側で死角に入った水の存在に自分で気づいているうちはいいが、それが本人にとって「無いこと」になってしまうと、いつしか人は自分の気持ちがわからなくなっていく。それに対応する他人の気持ちもわからなくなっていく。新しくやってくる悲しみは悲しみと認識されないまま自動的にダムの中に注がれるようになり、水位はどんどん上がって、堤もより高く、より分厚く成長していく。「流れていない水は毒だと思え(Expect poison from the standing water)」というウィリアム・ブレイクの古い格言そのままに、膨大な量のコンクリートに支えられた膨大な量の水はその緊張によって周囲の人を遠ざけ、時には共感の欠如や無神経な言葉やその他ありとあらゆる形の暴力に姿を変えて他人の心にも同じような構造物を作るきっかけになる。

だから私たちは誰かと心からつながりたいと願うなら––––自分自身の心とつながりたいと願うなら––––水を流さなくてはならない。しかし巨大なダムを抱える人間にとって積年の悲しみを認めて涙を流すことは自分の人格そのものが決壊してしまうような恐怖を伴うし、そのような大災害が起きてもまたコツコツと一から下流の町を作り上げていけばいいと思えるほど精神的に豊かな資源と環境を持つことのできる大人は少ない。普通は本能的にダムを見ないようにしてしまう。こうして人は年とともに視野が狭くなり、頑なになっていく。

どうしたら見えない水を安全に流すことができるのか。言葉は詩や物語の場合のように水について語ることもできるが、日常においてはコンクリートの領域にとどまってしまうことが多い。強がったり、他人の悪口を言ったり、無関係なことを滔々と話したりして論点をすり替え、本当に感じていることを覆い隠す役割を果たしてしまう。でも優れた音楽はほとんどいつも水のことを語る。音楽は分厚いコンクリートの壁に孔を穿ち、それぞれの曲に応じた種類の水を必要なだけ放出してくれる。

この世のあちこちで日々起こっている悲しいことが自分や自分の大切な人の身に降りかかったとき、それに対してどのように向き合えばいいのか、向き合わないほうがいいのか、私はやはりわからずにいる。しかし音楽を聴き、詩や物語に触れることで古く濁った自分の水を流し、辺境のダムの代わりに心の土壌全体に行き渡る無数の小さな流れを作り、その作業を通じて他人の水に思いを馳せることはできる。あらゆる水は循環していて、そこに自他の区別はないのだ。


Miya Folick「Cartoon Clouds」

子どもの頃に学んだクラシック音楽の歌唱技術を存分に発揮したデビュー・アルバム『Premonitions』(2018)で高い評価を得た日系アメリカ人ミヤ・フォリックが今年リリースしたEP『2007』の収録曲。この曲で彼女は生きる目的を見失っていて、窓の外を見れば青い空に漫画みたいな雲がぽっかり浮かんでいるのに、なぜ自分は部屋の中で塞いだ気分のまま楽しいことも何もできずにいるのかと苛立ちと罪悪感を覚えている。サビでは吸い込まれそうに澄んだ空と彼女の暗く沈んだ心という相反する要素がまるで同時に表現されているかのようで、情報社会において多くの人が日々感じているに違いない、しかし日常的すぎて誰もが解決することはおろかアプローチすることすら諦めてしまっているような「外界との落差や隔絶から来る孤独」を音楽を通じて分かち合うという稀有で偉大な達成がなされているように思う。曲の最後で彼女は自分自身の中にではなく、そばにいる人を笑顔にすることの中に希望を見出し、「だって気分がいいのって気分がいいものでしょう」と仏教的な環境で育った彼女らしい禅問答のような結論に辿り着く。才気に溢れた前作と比べてこの曲が(さらにはEP全体が)小さく控えめなものになってしまっていることそれ自体が彼女の苦しい状況の痛切な表現になっているように思えて、アーティストとしての巧さを超えた人間的な厚みを感じた。

Maya Hawke「Sweet Tooth」

ドラマ・シリーズ『ストレンジャー・シングス』への出演によって注目を集めた24歳の俳優マヤ・ホークの2ndアルバム『Moss』からのシングル曲。テイラー・スウィフトの『Folklore』(2020)に影響を受けたというスムーズなサウンド(同じエンジニアを雇っている)に乗せて歌われているのは母親に対する複雑な思いだ。「お母さんのせいでいろいろと大変な目に遭ったけど、自分が多少なりとも面白味のある人間になれたのはそのおかげもあるし、今もつらいときにはあなたに電話したいと思っているよ、私のひどく痛むsweet toothについて」と、何事も憎むよりは愛そうと努める自分の性向を甘党(sweet tooth)に喩えて歌っているが、その歯(tooth)は同時に痛んでもいる。彼女はやはりどこか無理をしていて、そのことを母親に知ってもらいたがっているのだ。この人に特殊なところがあるとすれば、その母親というのが『キル・ビル』のユマ・サーマンだということだろうか(父親はイーサン・ホーク。彼女が7歳のとき両親は離婚)。「音楽はチーズケーキだ」と言った人も昔いたみたいだが、私には音楽を糖分が多いと分かっていてもやめられないスイーツのようなものとして消費してしまうところがあって、このようなあまり栄養価の高くなさそうなポップソングにもしばしば抗えず満足を覚えてしまう。あらゆるスイーツの中で私が一番好きな豆花と同じように、この曲もヘルシーで甘さ控えめではある。しかしいずれにせよ虫歯には注意が必要だ。

Nilüfer Yanya「shameless」

どうやったらこういう音が作れるんだろうと唸らされる、ニルファー・ヤンヤ自身の言葉を借りれば「celestial(神々しい、天空の)」なヴォーカルと、ざくざくとした質感のギターによる毅然としたコードチェンジの対比が美しい曲。イギリス国内のメディアから「世代のスターとしての地位を確立した」と評された2ndアルバム『PAINLESS』より。歌詞は断片的だが、「もし私のことが憎いなら気の済むまで痛めつければいい、私が燃やされるところを朝から晩まで見ていればいい、だってこの部屋の中では私たちに国籍はないし(stateless)、信義もないし(faithless)、私は恥知らずで(shameless)、堕ちていっても本当に地面に激突するときまで痛みはない(painless)のだから」と、『裁かるるジャンヌ』的な暴力的世界に対して吉幾三的な「なんにもねえ」論法でマゾヒスティックに開き直っている。ネット上での個人攻撃や女性に対するハラスメントのことなどを思い起こさせる内容だが、ヴォーカルの気高さもあいまって、自分の肉体を完全に投げ出してしまうほかなかった人から逆説的ににじみ出てくる清浄さ、どれだけ汚辱にまみれても中心の部分で冒されることのない人間の尊厳が、ドストエフスキーの小説に出てくる娼婦のような「人としての幅」をもって浮かび上がってくる。天国と地獄がどちらも人間の考え出したものである以上、それらはどんな人の中にも何の無理も矛盾もなく同居しているのだ。特に何も起こらない間奏もひそかに斬新。

Camila Cabello「Bam Bam (feat. Ed Sheeran)」

ここに挙げた中で最もわかりやすく明るい曲であり、ダントツで広く聴かれている曲。この曲が好きな理由は至ってシンプルで、人生の喜びというものがそのまま表現されているように感じるからです。「人間の生の楽しさを証明しろ、さもなくば地球を滅亡させる」と襲来した宇宙人に言われたら、「あの、人間はこんな音楽が作れます」と言ってこの曲を聴いてもらうかもしれない。歌詞も「失恋してすぐは自分の足で立てるかどうかも怪しかったけど、人生ってそんなもの。今じゃこうして踊っちゃってるよ、バンバン!」とこちらも至ってシンプルな内容。後半にかけてどんどん盛り上がっていく造りも丁寧だし、マジめっちゃいい曲で超元気出る~。他に取り立てて言うことはありません。

原由子「ヤバいね愛てえ奴は」

不思議な雰囲気で始まって不思議な雰囲気で終わる曲。誰かのことを愛したいけどその相手がいない。誰でもいいわけではないけど特に誰というわけでもない。そういうごくありふれた、だからあまり歌になることのない、しかし生活全体に蔓延するフラストレーションを卵でとじるようにふわっと何気ない憂愁の中に包み込んでいる。捉えどころのない日常の感覚を捉え切らないことによって捉えている。「マルっと愛受け止めて」とサビの最後で歌われているように、この曲の主人公が抱いているまっすぐで無条件で全面的なものへの憧れは決して弱いものではない。幸せになりたいから誰かと一緒にいたいのに幸せになろうとするほど誰とも一緒にいられなくなってしまうジレンマはやっぱりつらい。ともすれば人を押しつぶしてしまってもおかしくないそんな状況をしかしその曖昧さごとマルっと受け止めてしまう、「心の豊かさ」としか形容しようのないものがこの曲にはある。それは終始主人公の「僕」の視点で歌いながら、どういうわけかそこに母のような優しさも与えてしまう原由子さんの歌唱の為せる業なのかもしれない。何よりメジャーの舞台であまたの成功を収めた桑田佳祐が今になって一種のインディー的な感性でこういう若い世代にとって極めて差し迫った内容を持つ現在進行形の曲と詞を書けるということに深く驚かされた。ヤバいのは愛だけではない。

Molly Nilsson「Earth Girls」

今年で活動15年目を迎えたスウェーデンのシンセポップ・シンガーの新作『Extreme』から。世界中で音楽を演奏しながら好きなように生きてきて、とりあえず自分の人生は一丁上がりだと思っていたモリー・ニルソンが、男たちによって支配されるこの地球の若い女性たち(Earth Girls)の苦労や苦悩を見るに見かねてメッセージを送るという体裁をとっている。これまでずっと男たちに足を引っ張られ、中傷を受けることに慣れさせられ、「歌の中の恋人」や「絵画の中の裸婦」として男性の視野の中で生きることを余儀なくされてきた結果、嫌な思いをさせられても「私の考えすぎなのかも」と自分に矢印を向けて責めてしまう女性たちに、「その指を代わりに世界に突きつけてやれ!」と彼女は鼓舞する。限りない希望を感じさせるキラキラしたトラック(私が昔から大好きなOMDの「Souvenir」を彷彿とさせる)と、「Women have no place in this world(この世界に女たちの居場所はない)」と繰り返されるサビの暗澹たる歌詞のあいだには、初めのうち皮肉な距離がある。しかし曲が進むにつれトラックの明るさが歌に乗り移るかのように目線は上がっていき、最後にはその同じ歌詞が「女たちはこんなくだらない世界に用はない、私たちの居場所はこれから作られるよりよい世界にあるのだから」というニュアンスを帯びて聴こえてくるようになる。物事の見え方を変えることのできる音楽の力を目の前で「ほらね」とばかりに実証してくれる曲。