生き延びるための音楽–––Huggy Bear『Weaponry Listens To Love』

ハギー・ベアというバンドが好きだ。

きっかけは私が19歳の頃、確か「クロスビート」だったと思うが、ベックが雑誌のインタビューで彼らを好きなバンドのひとつとして挙げているのを読んだことだった(当時の私は手に入る限りのベックのインタビュー記事を古本屋で買い集めていた)。ほどなくして吉祥寺のディスクユニオンで彼らの最初にして最後のフルアルバム『Weaponry Listens To Love』(Wiiija, 1994)のアナログ盤を見つけることができ(200円だった)、一度聴いてすぐに夢中になり、それから20年近く経った現在も2年に1回くらいは思い出したように聴きたくなって棚から引っ張り出し、しばらくの期間ターンテーブルの上に載せている。

不思議なことにと言うか、海外の音楽ブログや購入サイトなどを見てみると、『Weaponry Listens To Love』について肯定的なレビューを書いている人の多くが私と同じように「○○歳のときに初めて聴いて、それから××年経った今も変わらず好き」という書き方をしている(そしてこれだけの作品を残しながら、ハギー・ベアが現在に至るまで相応の評価を受けていないことに遺憾の意を示している)。古いレコードのレビューというのは往々にしてそういうものなのかもしれないが、このアルバムに関しては、私はそこに別の意味も読み取ってしまいたくなる。だがそれについては後でまた触れることになるだろう。

このアルバムを彼らの最高傑作だと考える人々がいる一方で、「過去作(特にコンピレーション盤『Taking the Rough with the Smooch』)は良かったけど、この最後の作品にはがっかりさせられた」という真逆の声も少なくない。というか実際のところ、だいたい7対3くらいでこちらの意見のほうが優勢であるようだ。ごくまれにハギー・ベアが今日の音楽メディアで取り上げられることがあっても、記事の中で『Weaponry Listens To Love』は一度も触れられないことすらある。個人的な推測だが、なんとなくベックもこのアルバムが好きで彼らの名前を出したわけではないような気がする。率直に言って、『Weaponry Listens To Love』はパンク音楽史においてほぼ完全に忘れられた作品なのだ。

私が思うに、このような状況になってしまったのにはそれなりに明確な理由がある。まず大前提として考えなくてはならないのは、ハギー・ベアがライオット・ガール(Riot Grrrl。第三波フェミニズムの端緒となった90年代初頭のパンク・ムーブメント)の流れの中で出てきたバンドであるということだ。ライオット・ガールはその名の示す通り、性暴力やDV、父権制、抑圧的なセクシュアリティ観などに対する若い女性たちの強い憤りに根差した運動であり、代表格のビキニ・キル(#MeTooなど近年のフェミニスト運動の高まりを受けて2019年に再結成)を聴けばわかる通り、その音楽はかなり衝動的で扇動的だ。3年という短い活動期間の初期から中期、上述の『Taking the Rough with the Smooch』やビキニ・キルとのスプリット・アルバムをリリースしていた頃のハギー・ベアは、そんなライオット・ガールの流儀の本筋を行く音楽を作っていた。

中期までのハギー・ベアを象徴する曲「Herjazz」

しかしながら彼らはこの新興ムーブメントの一員として、初めから2つの特殊な事情を抱えていた。ひとつは、彼らがイギリスのバンドだったということだ。ライオット・ガールはアメリカのワシントン州オリンピアで始まった運動だが、中心となったバンドたちはメジャー・レーベルを嫌ってアンダーグラウンドでの活動を続け、運動の輪は主にメンバーやファンの作るジン(同人誌)によって広がっていったため、当時の関係者の多くはアメリカ国内のバンドだった。もうひとつは、ハギー・ベアが「girl-boy revolutionaries(男女革命家)」を標榜する、女性3人・男性2人(のちに1人)による男女混成バンドだったということ。これもまた「分離主義的」と批判されるほどに男性忌避が浸透していたライオット・ガールのシーンにおいては異例のことだった。

運動の中心地とは異なる国を拠点としていたこととメンバーに男性が含まれていたことが彼ら(彼女ら)の活動の成り行きに具体的にどのように作用したのかは知る由もない(ハギー・ベアはインタビューの類を拒絶していた)。バンド活動というのは他にもあらゆる要素から影響を受けるものである。だが結果だけを見るなら、それまで男女間でほぼ均等に分担していたメイン・ヴォーカルの役割は、最後の作品となった『Weaponry Listens To Love』の大部分で、ギターのジョン・スレイドが抜けたために当時唯一の男性メンバーになっていたクリス・ロウリーが果たすことになった。文字通りバンドの「声」と言えるヴォーカルで女性が主導する曲が全11曲中3曲だけというのでは、彼らの新しい音楽をライオット・ガールの文脈で評価することは––––いくら男性のフェミニストも存在するとは言っても––––難しかっただろう。

※彼らがテレビに初出演した際、演奏終了直後にいわゆる「愛人」的なイメージで売っていたアメリカ人モデルデュオ、バービ・ツインズのインタビュー映像が始まったことにメンバーやレーベル関係者が憤慨し、生放送中に司会者に詰め寄って警備員が出てくる騒ぎとなり、その結果「フェミニストの醜い目論見が若者に悪影響を与えている」などとイギリス国内のメディアから叩かれる不幸な出来事もあった。

女性3人による演奏およびサイド・ヴォーカルに男性が歌を乗せるというかなり珍しいバンド編成が確立するのと前後して、その音楽性についても目に見える変化があった。それまでの短いリフを軸に作られた、ほぼワン・アイディアのみで突っ走る彼らの曲に、比較的複雑なストラクチャーが持ち込まれたのだ。伝統的なヴァース-コーラス形式を用いた曲もあれば、どれがヴァースでどれがコーラスなのかわからないような曲もあるが、『Weaponry Listens To Love』の収録曲はすべて(間奏曲的な位置づけの「“Why I’m A Lawbreaker”」を除く)多数の音楽ブロックの積み重ねによって構築されている。それに伴い、各曲の長さも平均で1分ほど延びることになった。

これは一面においては彼らの音楽から以前のような抜けの良さが失われることを意味していた。それぞれの曲が表現するエモーション(情感)のようなものがあるとして、そのエモーションのさまざまな側面を異なるブロックを通過しながら順番に見せていくことは、曲のテンションが最高潮でないときに停滞を生んでしまうからだ。「暴動(riot)感」を身上とするライオット・ガールのバンドにとって、これもまた自らの定義に背く致命的な方向転換だった。ハギー・ベアの音楽はもはや「ライオット」でも「ガール」でもない、何だかよくわからないものになってしまったのである。

だが別の見方をすれば––––それは『Weaponry Listens To Love』に対する過去の論評からは抜け落ちていた見方でもあると思うのだが––––新しく生まれた停滞の中で、彼らは自分たちの内面や周囲の状況をこれまでよりも少しだけ落ち着いて眺めることができるようになった。自らの不安や分裂や混乱と向き合い、そのような苦しい状態に陥ってしまった経緯について、いくらかなりとも筋道立った物語を語ることができるようになった。音楽が構造化し、停滞が生じたことは、彼らの人間的成長の表れでもあったのだ。

では『Weaponry Listens To Love』においてハギー・ベアが語った「物語」とは何だったのか。それは以下の2曲で端的に示されている。

No one gave me and you a second thought
Unless in the form of a dismissal
It’s all been deputised, and it’s all been deputised
It’s shabby and it kneels at some boss
In these fucking fucked-up lives of ours
 
俺やお前のことなんて誰もろくに考えはしなかった
俺たちを追い払うとき以外には
すべては代理されている、代理の人間が処理している
みすぼらしく、上司だかにひざまずいて
このクソみたいに無茶苦茶な俺たちの人生では

Your lack of soul
I’m powerless to prove
Under this name
Under this sign
Your sexual history means nothing
Your money has no weight
 
あなたに魂が欠けていることを
証明するだけの力が私にはない
この名前のもとでは
この星座のもとでは
あなたの性遍歴は意味がない
あなたのお金は価値がない

ここでクリス・ロウリーとベースのニキ・エリオットによってそれぞれ歌われているのは、社会の上層にいる、自ら手を汚すことのない、魂を失った人間たちと、彼らの代理人としてその価値観を内在化した、顔のない人々だ。何も持たない若者たちは彼らによって自分が無力な使い捨ての存在にすぎないことを繰り返し思い知らされる。イギリス社会に根強く残る階級差別の問題がここにどれほど関係しているのかはわからないが、一部の人々が生まれながらにして(「この名前のもとでは/この星座のもとでは」)弱者であり、抑圧され、他者の権益のしわ寄せを受ける運命にあったことは事実だろう。

「どこまでも本物の苦悩」と「深い残忍性」(「Fuck Yr Heart」)に見舞われ、「あるのは崩壊だけ」(「Erotic Bleeding」)と感じている彼らは、「どこにも道はないみたいだ/どこにも重さはないみたいだ」(「Obesity + Speed in 15 Refractions」)と自分たちの将来や存在そのものが消えていくように感じ、「僕を見つけてくれ/僕は記憶なんかじゃない」(「Warming Rails」)と声を限りに訴える。「Facedown」など性暴力を扱った曲は残しつつも、ハギー・ベアは本作において問題意識を全体として「マイノリティとしての女性」から「マイノリティとしての若者」へ移し、彼らを実存的な危機に陥れているこの人間疎外の問題に焦点を当てている。それは「性を超えた」というよりは(超えるには性差別はあまりにも根深い問題である)、男女が呼吸を合わせてひとつの作品を作り上げるバンドとして、より自然な方向へ進んだということなのかもしれない。

怒りの表現というものに関して、若い人々は特別な立場にある。彼らは家庭や社会の中に潜んでいる問題をまるで鏡のように映し出してしまう無垢(イノセント)な存在であるのと同時に、この世界に生み落とされてからまだ間もないためにそこにはびこる悪に関して完全に無実(イノセント)であるため、問題を解決するために考え行動する責任が生じる大人たちとは異なり、悪に対して基本的には無制限に腹を立てる権利を持っている(もちろん犯罪行為は駄目だが、その場合でも刑法や少年法は年齢による酌量の余地を与えている)。セックス・ピストルズがそれ自体は悪とは言えない秩序や理想主義まで否定してしまう「アナーキー」で「ノー・フューチャー」なニヒリズムを主張することになったのも、彼らの社会悪に対する怒りがそれだけ大きかったからだろう。

年頃の子どもに反抗期が訪れるためには親に対する基本的な信頼感(反抗しても見捨てられることがないという安心感)が必要であるのと同じように、こうした反抗的なタイプの音楽にはその背景に世界に対する信頼があるように私には感じられる。セックス・ピストルズの音楽を特徴づけているのは何よりもその突き抜けた明るさだ。彼らにとって足元の地面は盤石であり、その上で許せないことが起これば容赦なくやっつけてみせる。その意味で彼らの怒りは「世界をより良いものにしたい」という愛の一形態であって、だからこそ彼らは世界中で人気を獲得し、後進たちに影響を与えたのではないか。

しかし世間の若者の全員がそれほど「健全」な精神を獲得できるわけではない。何らかの理由で怒りを素直に表現することのできない、地面がいつ崩れるかわからない不安定な世界で生きている若者たちにとって、鬱積した怒りは人生を狂わせかねない巨大なリスクとなる。いつか自分や他人に危害を加えてしまうかもしれない。魂を失って性やお金に走ったり、感情を抑えて周囲の規範に従うあまり、誰かの「代理の人間」のようになってしまうかもしれない。『Weaponry Listens To Love』を締めくくる「Local Arrogance 1994」で歌われているように、そのような状態にあるとき、人が世界に対して求めるのは涙が出るほどささやかなことでしかない。

I’m inclined to the decline
I know what I want
I just want this time to be mine
Don't take this night away from me
Don't take this night away from me
 
俺はすぐに落ちていってしまう
自分が何を求めているのかはわかっている
この時間を自分だけのものにしたいんだ
俺からこの夜を奪わないでくれ
俺からこの夜を奪わないでくれ

『Weaponry Listens To Love』が抱え込み、また手を差し伸べているのはこうした精神だ。やるせない怒りが遺恨や懊悩や嗜虐に姿を変え、人間を内側から苦しめる過程の一部始終をハギー・ベアは音と言葉の両面から理知的なまでに克明に記録している。確かに演奏はお世辞にも巧いとは言えない。特にドラムはところどころで微妙にずれていて、スネアはまるで段ボールか何かを叩いているみたいなパコパコした音になっている。しかし繰り返し聴いていて感じるのは、彼らがほとんど「完璧」という言葉を使いたくなるほど極めて完成度の高いバンドだということだ。

テクニックよりも覚悟の決まり方が重んじられるパンクだからこその逆説的な洗練性というのか、現実の切迫した状況が彼らの曲に「こうでなくてはならない」という強い必然性を与えているように感じられる。ジャケットの燃え上がる炎そのままに、このアルバムでは苦痛の大きさと自己表現の熾烈さがぴたりと釣り合って「完全燃焼」の状態にあるように聴こえる。「ものすごく気が滅入っているんだ(I feel so depressed)」という無防備な告白が何度も繰り返される「Obesity + Speed in 15 Refractions」ほど、抑鬱の渦に引きずり込まれていく力とそこから這い上がろうとする力が激しくせめぎ合っている音楽を私は他に知らない。

人間性を欠いた社会に炭鉱のカナリアのように繊細に傷つきながらも、苦境を乗り越えようと自ら力を尽くせるほどに成熟してきていたハギー・ベアは、『Weaponry Listens To Love』で若者と大人を隔てる山の稜線に立ち、これまで歩いてきた方角とこれから歩いていく方角の両方を見渡している。それはイノセンスへの別れの歌であり、大人との出会いの歌だ。自分で自分の問題にカタをつけようとするような「ものわかりの良さ」はパンク音楽が成立するにはぎりぎりの地点だったのかもしれないし、だからこそ彼らはこのアルバムをリリースした直後に解散したのかもしれない。しかしそれはまた私のようなファンがこの作品を長年にわたって聴き続けることができる理由にもなっている。なぜなら『Weaponry Listens To Love』は若者からも、大人からも、その境界上にいる人からも見える位置でその炎を燃やしているからだ。

きつい時期には違いなかっただろうが、「武器は愛の言うことを聞く(weaponry listens to love)」というタイトルの通り、彼らは明るい未来を信じることやめなかった。1975年から2005年までのインディペンデント音楽業界の動向を追ったリチャード・キングの『How Soon Is Now?』(2012、未邦訳)によれば、解散後、ドラムのカレン・ヒルを除く3人のメンバーは新しくバンドを組むことなく、ニキ・エリオットは女子刑務所で、クリス・ロウリーとギターのジョー・ジョンソンは保育関係の職場で働き始めたそうだ(その後ジョー・ジョンソンは2014年にソロ・アルバムをリリースする)。