月の上に望んだもの、深海の底で見つけたもの–––King Kruleの10年を振り返る

いつだって見上げれば月はある。でも触ることはできない。そこにいつもあって、頭の上に懸かっているのに。自分はそのことにずっと悩まされていたような気がする。

You physically always look up [at the moon]. But you can’t touch it, it’s always there, hanging over you. I guess it used to haunt me.

––––VICEのインタビューから(2017年10月20日掲載)

キング・クルールには、キャリアを通して歌い続けてきたものが2つある。それは深海だ。届きそうで届かない、月に対する強い憧れの気持ちを表しているという1stアルバム『6 Feet Beneath the Moon(月の下6フィート)』や、月面を模したセットでのライブ映像『Live On The Moon』のほか、「La Lune(フランス語で「月」)」や「Ocean Bed(海底)」、「Neptune Estate(ネプチューンの土地)」など、これらのモチーフは歌詞のみならずアルバムや曲のタイトルにも現れている。多くの場合、月は切望や念願の対象として、深海は彼の生まれ育ったロンドンの下層社会や陥っている悩みの深さの象徴として、用いられているようだ。

音楽という手段を駆使して、人の気配のない深海から、同じく人の気配のない月へ––––孤絶から孤高へ––––垂直方向に移動すること。ビヨンセやカニエ・ウェストやフランク・オーシャンからも一目置かれる独創的な音楽制作の背景で彼を突き動かしてきたのは、おそらくそんな衝動だった。一度は成功しそうに見えたその企ては、だが思いもよらぬ変転をたどり、やがて彼を見知らぬ場所へ導くことになる。デビュー当時から今年2月にリリースされた3rdアルバム『Man Alive!』まで、10年間の活動をひもといてみたいと思う。


キング・クルールことアーチー・マーシャルが世に出てきたときから、その天才は火を見るより明らかだった。彼がズー・キッド(Zoo Kid)として2010年、当時まだ15歳だったときにリリースした「Out Getting Ribs」のための映像(撮影時は17歳)を初めて見たときには、歌い手の容貌があまりに幼すぎることの衝撃もさることながら、その細く鋭い神経を剥き出しにするようなバリトンの歌声と、音楽はリズムとメロディとハーモニーの三要素だけではないということを改めて思い出させる表現者としてのプレゼンス(風采、存在感)に鮮烈な印象を受けたものだ。セルフタイトルのEP(2011)、シングル「Rock Bottom」(2012)、デビュー・アルバム『6 Feet Beneath the Moon』(2013)と、彼の音楽はそれから年を追うごとに成長し、その輪郭を露わにしていく。

この時点までの(と言ってもまだ19歳なのだが)キング・クルールの音楽の良さをあえて一言でまとめるなら、それは私にとってジャズとパンクの調合の妙ということになる。強い思いを表現できるぶん一本調子になりやすいパンクの弱点をジャズの繊細さがうまく補っているというのか、具体的に言えば、サウス・ロンドンの街の荒涼たる現実や自分自身の不安定な精神状態について語りながら内面に深く沈み込んでいこうとする彼のモノトーンなヴォーカルに、ギターのニュアンスに富んだコード進行が浮力のようなものを与えているように聴こえるのだ。そのどちらがより重要ということではなく、上昇と下降の緊張そのものが行間のメッセージのようなものとして、夢想と陶酔の力を借りながら逆境を生き抜こうとする感性豊かな若者の見えざる闘いについて報せているように感じられる(一部の曲で彼はその闘いに勝利し、別の曲では敗北している)。イギリス暴動後の閉塞した社会状況において、国内メディアが彼のことを「幻滅した世代の声」として受け止めたのも自然なことだったのかもしれない。

だがマーシャルがのちにこの時期について振り返ったインタビューからは、彼が世代を代表することなどからは遠くかけ離れた地点にいたことが窺える。

バンドと一緒にプレイしているとき、自分の好きな人たちと一緒にいるときでさえ、「お前ら全員クソでもくらえよ(Fuck all of you)」と思うことがあった。お前らは俺が何について語っているのか少しもわかってない。お前らはこれがどこから来たものなのかすら知らない。そのころ俺はそんなふうに自分の音楽のことを考えていたし、今でもそれは巨大な「fuck you」だと思っている。俺は怒っているんだ。

Pitchforkのインタビューから(2017年9月14日掲載)

自分の中の抑えがたい怒りに徐々に支配されていくように、その後の彼の音楽からは「遊び」がなくなっていく。2015年に本名のアーチー・マーシャル名義でリリースしたヒップホップ志向のアルバム『A New Place 2 Drown』(「新しい溺れ場所」の意味)の収録曲は陰鬱な歌詞を持つものばかりだが、それらはまだ音の感触自体のダークな快楽を追求したような巧みなビートワークによってさらりと乾いた雰囲気にまとめられている。ところがキング・クルールとしての4年ぶりの2ndアルバム『The Ooz』(2017)に至ると、ギターを含むすべての楽器が彼の内的なムードを追従するようになる。音楽全体が歌詞の「中」に入ってしまっているというか、それは「歌詞を持った音楽」というよりも「詩のための伴奏曲」のようなものに接近している(マーシャルはインタビューでたびたび自分のことを「詩人(poet)」と呼び、自作における言葉の重要性を強調している)。

以前よりも細部に凝った音作りがなされる一方で、ジャズの特徴のひとつとされるセブンス・コードは減少し、コード進行はほとんどないか、あるとしてもパンク的なバレー・コードによるものが多く、歌が演奏によって持ち上げられることはおろか、歌と演奏の距離感によって息を継ぐことのできる空間が生まれることもない。まるで––––月の下で生きることを運命づけられた自分について歌った「Sublunary(「月より下の」という意味の形容詞)」の通り––––月を目指すことを完全に諦めてしまったかのように。「深く沈んでいくみたいだ、太陽の光を見つめながら」という歌い出しで始まる1曲目の「Biscuit Town」から最終盤の「Midnight 01 (Deep Sea Diver)」でバンドがようやく自発的に走り始めるまで、アルバムのほぼすべてが青と黒の深海に沈み込み、幻想の余地はことごとく排除されている。

※キング・クルールがこれまでリリースした作品のスリーヴはすべて青と黒(とわずかな赤)によって構成されている。そのほとんどは実兄のジャック・マーシャルによるもの。

『The Ooz』を作っていた時期、マーシャルは鬱病と不眠症の症状を呈する大きな精神的落ち込みを経験したという。「自分自身にも、自分が作っているものにも不満だった」と彼はHYPEBEASTに語っている。「一度そうなってしまうと、自分が役立たずに思えて、自分のすることは全部クソだと思ってしまう……展覧会もやったし、本もレコードも作ったし(※筆者註『A New Place 2 Drown』のこと)、地元のミュージシャンたちのためにずっと共同作業したりもしていたけど、自分にとってそれは意味のない、ただの虚無だった。制作をしていたのに、いろいろとやっていたのに、それでも自分に不満だった」

彼がここまで自分のことを追い込んでしまう理由の一端らしきもの––––それはまた彼の音楽がどこから来たもので、何について語っているのかにも深く関係しているだろう––––については、いくつかのインタビュー記事や歌詞の中に垣間見ることができる。早くから両親が離婚し、父親の家と母親の家を行き来しながら育ったこと。「恐ろしく厳しかった」というBBCのアート・ディレクターだった父親のために、子どもの頃には「たくさんの奇妙なクソ」を経験したこと。衣装デザイナーの母親もまた何らかの問題(おそらくは酒の問題)を抱えていて、家にはあまりおらず、いつも兄と一緒に冷凍食品やテイクアウトのものを食べていたこと。10代初めにドラッグやグラフィティのために何度も放校処分を受け、やがて通うことになった「ライオンの巣窟」のような不就学生徒向けの教育施設でいじめに遭ったこと。病院でさまざまな精神症状の検査と不可解な治療を受けさせられ、自分が本当に損なわれてしまったと感じたこと––––14歳で難関のブリットスクール(アデルやエイミー・ワインハウスらを輩出したイギリス政府出資による学費ゼロのアートスクール)に合格し、少しずつその学校が好きになるまで、彼の少年期は周囲に彼を子どもとして扱ってくれる責任ある大人の存在しない、困難なエピソードに満ちている。『The Ooz』からの1stシングル「Czech One」には、こんな象徴的な一節が含まれている。

See I’ve found a new place to mourn
She asked me who died
 
ねえ、嘆き悲しむための新しい場所を見つけたよ
誰が死んだの、と彼女は訊いた

「mourn(嘆き悲しむ)」は死者を悼むときに使われる言葉だが、彼の恋人にはなぜ誰も死んでいないのにそんなことをする必要があるのかわからない。しかし彼には誰かが死んでしまった感覚が常につきまとっている。おそらくそれは彼の一部だろう。だからこそ彼は曲の後半で「彼女は俺をぎゅっと抱き締める、ぎゅっと抱き締める、それでも俺は継ぎ目から裂けてしまう」と歌う。ずっと昔に彼の身体のパーツの一部はどこかに消えてしまっていて、彼は「individual(個人。in+dividu+alで「分割できないもの」という意味)」ではなく、別の曲のタイトルの通り「Vidual(分割された個人。彼の造語)」になってしまった。さらに「The Locomotive」で歌われているように、それは彼にとって普通の人間とは違う何かになり果てることを意味していた。

I wish I was equal, if only that simple
I wish I was people

自分も平等だったらよかったのに、そんな単純な話だったらよかったのに
自分も「人々」だったらよかったのに

マーシャルがなぜ月に憧れ、月に手が届かないことに悩まされていたのか、その意味がここに来てようやく明らかになってくるような気がする。彼にとって、人生はいつも真っ暗な海の底から水面に映る太陽の光を見上げているようなものだった。しかし潜水士でもない限り、そのような光景を現実に目にする機会はないだろう。それに近い状況が日常に出現する場合があるとしたら、それは月を見上げる夜だ。もちろんこれはただの推測にすぎないわけだが、彼の心のどこかではこれら2つのシーンが二重写しのように重なり合い、彼は月に到達することさえできれば、自分は初めて水面の上で暮らしている世間一般の人々と同じ高さに立つことができる、普通の人間になれるのだと感じていたのではないだろうか。

『The Ooz』を作りながら彼が経験した落ち込みは、見方を変えれば、胸の奥でいまだに血を流し続けている古傷に彼が正面から向き合い、失われた子ども時代と折り合いをつけようとした結果だったのかもしれない(「Bermondsey Bosom (Right)」と「Half Man Half Shark」には父親のアダム・マーシャルがヴォーカルとして参加している)。下手すればキャリアどころか人生を終わらせかねないほどの危険な取り組みだっただろうが、結果的に『The Ooz』は前人未踏と言っても過言ではないほどの深みを獲得し、一種のコペルニクス的転回を成し遂げているように思う。それはつまりこういうことだ。「このまま深く泳いでいったら、水圧は俺を覆っているこのシーツの内側にまで入り込んでくるかもしれない」と鬱状態で寝込んでいる自分について「Midnight 01 (Deep Sea Diver)」で歌っているように、『The Ooz』に込められた苦痛の総量はあまりにも大きすぎて、彼が深海のダイヴァーとして自らの苦しみの全容を積極的に探索し解明しようとしているのか、それとも苦しみの中でただただ溺れかけているだけなのか、その境界線すらはっきりしない。だがこの楽なことばかりではない人生において私たちもまた大なり小なり感じたことがあるはずの苦しみがここに圧倒的な物量をもって表現され現前しているという事実それ自体が、私たちを不思議と慰める。それは悲しいことがあった後で海を眺めるときの感覚とどこか似ている。「孤独であることの悲劇のひとつは、孤独な人々はたくさんの人が自分と同じように感じているということに気づけないことだ」と最近のニューヨーカー誌のある記事は書いていたが、『The Ooz』を聴いていると、私たちは孤独かもしれないが、まさにそれゆえに深く連帯しているのだと感じる瞬間がある。音楽の中から救いは消えてしまったかもしれないが、音楽と聴き手のあいだに別種の救いが生まれているのだ。


『The Ooz』をリリースした翌年、アルバムの収録曲「Cadet Limbo」の映像を監督した恋人の写真家シャーロット・パトモアが妊娠したことをきっかけに、マーシャルはロンドンを離れ、パトモアの実家のあるイングランド北西部の町ウィガンに居を移す。この時期から2019年3月の第一子誕生後にかけて作曲された3rdアルバム『Man Alive!』(2020)は前作の余韻のようなパンク調の暗い楽曲群で幕を開けるが、雰囲気ががらりと変わる5曲目の「The Dream」以降は、過去のどの作品にも見られなかった静かな諦念のようなものが漂う曲が並んでいる。歌詞の面でも、「君は俺のすべて」と繰り返し歌う「Perfecto Miserable」や「俺を完成させてほしい」と訴える「Please Complete Thee」など、自らの限界を認め、恋人に自分を委ねる内容のものが多い。

携帯電話の電波が途切れる地下鉄(「Cellular」)や高圧線用の鉄塔(「The Dream」)、上空を通過する飛行機(「Airport Antenatal Airplane」)など、やはり垂直方向の視点の移動は見られるものの、「ほぼスナップ写真と観察記録でできているアルバム」とマーシャル自身が語っているように、『Man Alive!』は比喩と象徴の世界に入れ込みすぎることなく、大部分が現実的な範囲にとどまっている。その中で月が現れる数少ない曲のひとつであり、アルバムの情緒的中心のようなものを形成しているのが「Underclass」だ。

「空に月が出て、俺たち全員に審判を下す/お前の俺に対する見方にはもううんざりだよ/どんな人間でいたらいいのか全然わからなくなってしまった」と、長らく囚われてきた月にまつわる強迫観念をなげうつような歌詞で始まるこの曲では、デビュー・アルバムのあの懐かしいジャズ・コードが還ってきている。だがそこに込められているのは、無垢な空想の生み出す陶酔感というよりは、自分について多くを悟ってしまった大人の悲しみのようなものであるように感じられる。アンダークラス(労働者階級の下に位置するイギリス社会の最下層)のさらに下で出会った恋人が自分のことを予期せぬ仕方で救い出してくれたこと(そこには子どもの誕生も含まれているだろう)について、マーシャルは往年のクルーナー歌手のように情感を込めてこう歌う。

Under the underclass
Deep in society's hole
That's where I saw you last
When we were beneath it all
I had this feeling I was coming back
But little did I know
 
アンダークラスの下
社会の穴の奥深く
そこで俺は君と最後に出会った
すべての下にいたときも
立ち直っていっている感じはあったけど
こんな風になるなんて知らなかったよ

このパートをマーシャルが歌い終えるのと同時に始まる、ゆりかごを規則正しく揺らすようなホーンは、彼の中で眠っている子ども時代の傷ついたマーシャルをあやす音のようにも聴こえる。「Man Alive!」というタイトルは生死の狭間から生還した人間を称えているようにも取れる言葉であり(通常は日本語の「あらまあ!」のように驚きや喜びを表す感嘆詞)、アルバムのアートワークも水の中から浮かび上がってきた人間の姿を描いているように見えなくもない。一番大切なものを彼は月の上でもなく、水面上でもなく、底の底で見つけたのだ。その深い闇の中にこそ、救いは––––月は––––あったのだ。

「自分の中にはたくさんの愛があるから、愛がすべてに打ち勝つだろうと知っていたよ」とLoud And Quietのインタビューで語っている現在の彼は、マリーナ(「ヨットやボートのための小さな港」の意味)と名づけた娘の写真を誕生後10か月で1万枚以上撮影するほどの子煩悩ぶりであるようだ。「心の奥深くでは、自分はいつも子どもが欲しかったんだと思う。そういうものを誇りにしたかったから。それに自分は長いこと家族とは縁のない人生を送ってきたし、家族の良さをちゃんと理解できているとは言いがたかったから。でも今はそれがわかるよ」

愛情は温泉のようなものだと思う。何もせずとも勝手にどんどん湧き出して自他を温めることができる人もいれば、どれだけ深く掘ってもなかなか湯脈に行き当たらない人もいる。もし愛の中で生きることを望むなら、そのような人は日々エネルギーを使って自分の中を掘り進んでいくしかない。どうして自分は他の人たちと違ってただ普通に生きているだけでこんなに疲れてしまうのだろうと、その作業の意味を疑ってしまうこともあるかもしれない。そのようなとき、キング・クルールの音楽は穴の奥のあなたを照らす一条の月の光となるだろう。