形にならない言葉、歌いたい歌–––映画『CODA』とPinegrove「Aphasia」

今年アカデミー作品賞を獲った『CODA』という映画を観ていて思ったことのひとつは、この世に存在するあらゆる歌は私たちが自分のための歌として自分の本物の気持ちを乗せて歌えるのだという、言葉にしてみればなんとも当たり前の事実だった。部屋で一人ギターの弾き語りをしていた時代から久しく遠ざかり、カラオケに行く習慣もないまま日々音楽を聴いてはこういう文章を書くことばかりしていると、自分の心と体を震わせて「音楽する」ことの可能性はわりと簡単に意識の外に追いやられてしまう。それはひょっとしたら––––健聴者であるはずの主人公ルビーが歌っているときの感覚について説明するときだけは両手を動かすほかなかったあの美しいシーンのように––––歌を歌うという行為がもともと人間にとって日常の感覚からはいくぶん隔絶したものであるからなのかもしれない。

それでもたまに「この曲は自分でも歌ってみたいな」と思う曲があって、このところで言うと(と言ってももう6年も前の曲になるが)アメリカ・ニュージャージーのバンドであるパイングローヴの2ndアルバム『Cardinal』(2016)に収められている「Aphasia」がそれにあたる。

どうしてそう思うのかは自分でもあまりはっきりとしない。この曲のヴォーカル・パートが極めて精巧に作られていることは確かだ––––緩急の反復、小節中でアクセントが来る位置のずらし方、一部箇所での「もたり」、ファルセットとシャウトからの急激なデクレッシェンド。一言でいえば、そこには安定したパターンを構築しながらそれを絶妙に崩していく心地良い予測不能性がある。それに加えて私には昔から込められた思いの激しさに対してテンポが遅く感じられる曲を好きになりやすい傾向もあるが、これらの技術的な細部と自分の歌唱欲求がどのように結びついているのかを説明することはやはり難しい。うまく作られた曲など世の中にはいくらでもあるが、言うまでもなくそのすべてを歌いたくなるわけではない。ここまで良いと思って繰り返し聴きながらその良さを言葉にしにくい曲もめずらしいように思う。

奇しくも「Aphasia」というタイトルは最近ブルース・ウィリスが罹患したことも報じられた「失語症」のことで、脳が受けた何らかの損傷のために言語によるコミュニケーションが困難になってしまう状態のことを指している。この曲では実際の病気ではなく喩えとして用いられていて、ヴォーカルのエヴァン・スティーヴンズ・ホールは、自分は内面で感じていることを決して正確に表現することができないのではないか、自分が何者なのかを誰にも伝えられないままただ時間だけが過ぎて行ってしまうのではないかという慢性的な恐怖と、そこから束の間解放されたときの迸るような喜び、今の自分が存在するのはその「生みの苦しみ」があるからこそなのだというより広い視点からの覚悟のようなものについて歌っている。曲の最後では、いつか自分は言葉で自己表現することによって自らを定義する必要すら感じなくなるときが来るのだろうというどこか甘美でどこか切ない予感めいたものについても触れ、歌詞以上に雄弁なギターソロに移行する。

歌うことを何よりも愛する主人公以外の家族が全員ろう者であるという『CODA』(およびオリジナルである『エール!』)の設定は、親は子どものことを本当には理解できないという、聴力とは関係なく世界のあらゆる場所で起こっている普遍的な現象の端的な表現にもなっているようにも感じられた(両親とルビーの架け橋として中間的な位置にいる兄は自分が妹のことを理解できないことを理解している)。それでも映画のクライマックス・シーンで描かれているように、親は子どもがしようとしていることのおおよその意味をつかみ、子どもを認め、愛することはできる。逆に言えば、理解が及ばないことを認めざるを得ないからこそ、その隙間をただ愛で満たそうとする。それと同じように、私たちは音楽の良さを本当には言葉にできないからこそ、ただそれを歌いたくなるのかもしれない。その音楽が訴えようとしていることを身体の奥まで染み込ませ、その音楽とともに生きていくために。

しかしだとしたらなぜ私はわざわざこうして音楽についての文章を書こうとしているのだろう。それは不可能なこと、もっと言えば不要なことではないのか? たぶん私が文章を書くのは音楽の意味を理解したいからではなくて、他の誰かの音楽を自分のための音楽として自分の本物の気持ちを乗せ、心と体を震わせて表現したいからなのだと思う。やや独特かもしれないし、しょっちゅう音を外しているような気もするが、たぶんこれが私の歌い方なのだ。いつか言葉で自己表現することによって自らを定義する必要を感じなくなるときまでは。