誰かの死を前に、音楽は–––身近な人を失ったアーティストによる4作品

私たちはみな他の人々との関わりの中に生きているので、親しみを感じている人を失ったとき、その誰かとの関係の中にある自分の一部も死ぬ。特にそれが家族や友人など身近な人である場合、死別は人生最大の危機にもなり得る強いインパクトを残す出来事で、そこから立ち直るには、精神分析や医療の世界で「喪の仕事(グリーフワーク)」と呼ばれる一筋縄ではいかない心の過程を経る必要が出てくる。音楽を作ることが多くの場合に自己の内面の表現である以上、ミュージシャンにとっては私生活のみならず職業生活の面でも、周囲の人々の死がもたらすものを避けて通ることは難しい。

亡くなった人に捧げられた曲であれば、有名なところではビートルズの「Let It Be」やエリック・クラプトンの「Tears In Heaven」、「精霊流し」や「涙そうそう」など、それこそ無数にあるだろう。しかし1枚のアルバムがまるごと近しい人の死に触発されているケースというのは、私の知る限りそれほど多くないような気がする。ニール・ヤングの『Tonight’s the Night』(1975)やスティングの『The Soul Cages』(1991)、イールズの『Electro-Shock Blues』(1998)など、ごく散発的に見られる程度ではないか。ところがこの10年ほど、作り手自身が故人に引っ張られるようにして精神的に生死の縁をさまよい、そこからアルバムという形式を借りて何とか深い闇を通り抜け、現世に踏みとどまろうとする試みが––––そしてそういった作品がその作り手の最高傑作と見なされるほどの高い評価を得るという現象が––––立て続けに起こっている。事実、以下に紹介する4つの作品のうち、EPである最初の作品を除く3枚はすべてMetacritic(各種メディアの評価を集計して平均点を出しているサイト)による「2010年代のベスト・アルバム」のリストの20位までに入っている。

このことが何を意味しているのか、私にはよくわからない。それはポピュラー音楽の社会における機能と役割の何らかの転換を示しているのだろうか。ドラッグの危険性に対する意識の低かった20世紀後半には、ミュージシャンたちは「死なれる側」より「死ぬ側」である場合が多かったということはあるだろう。また、SNSやダウンロード/ストリーミング、安価で高性能な宅録機材の出現以前、制作費や宣伝費などのコストが相対的に高く、アルバムをリリースすることの投機的な意味合いが濃かった時代には、決して愉快とは言えないプライベートを晒したアルバムを作り、しかもそれによってある程度の収益を確保しなくてはならないことに対して、ミュージシャンやレコード会社の抵抗が強かったということもあるかもしれない。

いずれにしても、死と対峙する音楽は私たちに深い感銘を与える。音楽というものの最大の使命が愛や生命感や人間性の分かち合いであると考えるなら、大切な人を亡くすことほどその真価が問われる場面はない。逆に生活が滞りなく回っているとき、私たちはたいてい死のことを忘れているが、「自分は生きている」というはっきりとした実感を持つことも少ない。太陽の強い光のために普段は見えない金星が宵と暁の薄闇の中でだけその姿を見せるように、生には死に触れることで初めて目の前に現れてくるようなところがある。持つことのできる人間関係の数が爆発的に増え、他人の情報を追ううちに日々がなんとなく流れていってしまいやすい現在、失ってしまったら自分も生きていけなくなってしまうほどの「かけがえのない存在」があることを思い出させてくれる音楽が求められているのは、ごく自然なことと言えるのかもしれない。


How To Dress Well『Just Once』(2011)

R&Bにローファイとアンビエントを融合させるというかつてなかった発想でシーンに新風を吹き込んだハウ・トゥ・ドレス・ウェルことアメリカ・コロラド州出身のトム・クレール。2010年のデビュー・アルバム『Love Remains』は親友のライアン・ヒッチョンから多大な影響を受けたというが、その親友がアルバムリリースの2か月前、27歳の若さで突然亡くなってしまう(死因は非公表)。翌年発表されたこのEP『Just Once』は、『Love Remains』の収録曲のうち3曲をストリング・カルテットによって編曲し、新たに1曲を加えたもの。収益の一部は精神障害を持つ人々の権利を守るための団体に寄付されている。

個人間の恋愛を表現するのに適したR&Bというフォーマットから「官能」という地上的な要素がごっそりと抜かれたこれらの曲は、まるでこの世で生きていくには純粋すぎた親友の魂を安置するために、手作りの小さな教会を建てようとしているかのようにも聴こえる。インタビューでは自身のノンバイナリーな性的志向について語っているクレールだが、ヒッチョンとの関係が具体的にどのようなものだったのかについては明かしていない(ジャケットでは2人の男性が抱き合っているように見える)。しかし、子どもの頃にクレールと父親のあいだで起こった何らかのトラウマ的な出来事に思いを巡らせる「Suicide Dream 2」や、「なぜ僕らは2人ともこんなにも孤独で/僕は自殺の夢に迷い込んでしまったんだろう」と歌う「Suicide Dream 1」からは、彼らが共通して持つ「傷」を通じて深く通い合っていたことが推察される。誰ともわかり合えないと思って生きてきたこのうら寂しい世の中で、彼らは互いのことだけは手に取るように理解することができたのではないか。

Nick Cave & The Bad Seeds『Ghosteen』(2019)

「どうやら私たちは愛を持っている限り、悲嘆に暮れるものらしい……悲嘆は私たちの愛がいかに深いかということの恐るべきリマインダーであり、愛と同じく如何ともしがたい」と2018年に自身のブログに書いているニック・ケイヴは、その3年前、15歳の息子アーサーを亡くした。オーストラリアを代表するアーティストとして70年代から活動してきた彼は、イギリス人の妻とのあいだに双子をもうけた2000年頃から英国ブライトンを拠点としてきたが、その郊外の海辺の崖からアーサーが転落してしまったのだ。一緒にいた友人の裁判所での証言によれば、彼らは初めてLSDを試して遊んでいたという。

ゴシックロックの形成にも影響を与えたニック・ケイヴのダークな音楽スタイルは、彼が19歳のときに交通事故で父親を失ったことが関係していると言われている。また2018年には長年バンドのメンバーだったコンウェイ・サヴェージが脳腫瘍のため亡くなっていて、『Ghosteen』は最終的には彼に捧げられている。しかし我が子を失った彼がどれほどの悲嘆に暮れたのかは––––彼がどれだけ息子を愛していたのかは––––例えばいつまでも降りやまない雨のような悲しみを湛えた「Bright Horses」に耳を傾ければ、雷に打たれるように直接的に身体的に理解することができる。もちろん本当に雷に打たれる感覚がわかるわけがないのと同様、彼の気持ちを本当に感じることなどできない。音楽はあくまで喩えにすぎない。現実と喩えのギャップがもたらす絶望的な孤独に沈み込むように、『Ghosteen』は曲を追うごとに難解になっていく。こうした理解の拒絶それ自体が子どもを亡くした親の心が辿る索漠たる行路を示唆しているようにも感じられる。

仏教におけるキサー・ゴータミーの逸話が語られる最終曲「Hollywood」に至って、ニック・ケイヴはようやく1つの慰めを見出す。それはこんな話だ。生まれて間もない赤ん坊を亡くし、気も狂わんばかりの悲哀に苛まれたキサー・ゴータミーは、周囲の勧めで仏陀に会いに行く。仏陀は「近隣の家から芥子の種を集めてくれば、赤ん坊を生き返らせる薬を作ってあげよう。ただしそれはまだ誰も死んだことのない家でなくてはならない」と彼女に言う。彼女は一心不乱に町中の家々を回るが、家族が今までに死んだことのない家を1軒も見つけることができない。あらゆる人々が大切な誰かを失っており、自分の苦しみは自分だけのものではないという事実に心を打たれた彼女は、仏陀のもとに戻って修行を始め、最後には悟りを開く。

悲嘆から立ち直っていった過程について、ニック・ケイヴはブログにこう書いている。「共に苦しむこと(communal suffering)こそが、そしてそれを乗り越える私たちの能力こそが、私たちを連帯させるものだととても強く感じた。それは悲観的な世界観などではなく、実際にはまったく逆のものだ」

Sufjan Stevens『Carrie and Lowell』(2015)

死と直面して折り合いをつけなくてはならないということは、そしてこれほどよく知らない人に対して愛を表現するというのは、とても恐ろしいことだった。僕にとって彼女の死が痛烈だったのは、自分の中の空白のためだった。彼女のことをできる限りかきあつめようとはした––––心の中で、記憶の中で、思い出の中で。でも僕は何も持っていなかった。それは解決不能に思えた。そこに確かにあったのは深い後悔と、悲痛さと、怒りだった。僕は死別がもたらすあらゆる段階をくぐりぬけた。

Pitchforkのインタビューから(2015年2月16日掲載)

スフィアン・スティーヴンスの母親キャリーが胃がんのために亡くなったのは2012年のことだった。具合の良いときは魅力的な人物だったが、鬱病と統合失調症と双極性障害とアルコール依存症を患い、ドラッグにも手を出していた。母親はスフィアンが1歳のときに突然家を出ていき、彼は父親(同じくアルコール依存症だった)と義母の家で兄姉とともに「間借り人のように」育つ。彼が母親と再会し、曲がりなりにも定期的に会えていたのは、母親がアマチュアのミュージシャンだったローウェル・ブラムズと再婚していた5年間のうち、5歳から8歳までの3度の夏くらいだった。曾祖母の付き添いで教会に通っていた彼はやがて母親の不在を埋めるように聖書を読みふけるようになり、また義父ローウェルは早くからスフィアンの才能を見出し、キャリーとの離婚後も彼に多くのレコードを紹介し、のちにレーベル<Asthmatic Kitty>を共同で設立することになる。

「これはアート・プロジェクトじゃない。僕の人生だ」と自身が語る『Carrie & Lowell』で、スフィアンは聖書やギリシャ神話を引きながら、響きの少ないギターに乗せ、今にも消え入りそうな声で母親に対する思いの丈を綴っている。子どもの頃、ただそばにいてほしかったこと(「Eugene」)。自分の空虚な気持ちについて手紙を書くべきだったこと(「Should Have Known Better」)。ICUでの最期の会話(「Fourth of July」)。母親の死後もつながりを感じたくて彼女と同じような自暴自棄な行動に走りかけたこと(「The Only Thing」)。彼はキリスト教に、自然の神秘に、生まれたばかりの姪の美しさに生きる意味を求めるが、喪失感が––––いや、自分は初めから何も持っていなかったのだという絶望が––––完全に埋められることはない。『Carrie & Lowell』を作ることで、彼は苦痛を生き延び、母親を許すことができた。でも過去のアルバムとは違って音楽を作ることから得られるものは何もなかった、と彼はガーディアン紙に語っている。

このアルバムには子どもから母親に向けられる、存在のすべてを投げ出すような愛情が込められているように感じられる。普通の人間は自分がそんなものを持っていたことなどほとんど憶えていない。でも彼ははっきりと憶えている。なぜならそれは決して報われることのなかったものだからだ。写真のネガのように、彼は愛情の相貌をその欠如の形でありありと浮かび上がらせている。

Mount Eerie『A Crow Looked at Me』(2017)

初めはザ・マイクロフォンズとして、途中からはマウント・イアリとして、アメリカのインディー・シーンで20年以上にわたって非常に高い評価を受けてきたフィル・エルヴラム。彼の妻でアーティストのジュヌヴィエーヴ・カストレイが膵臓がんと診断されたのは、2人のあいだに待望の子どもが生まれたわずか半年後のことだった。それから1年あまり経った2016年7月9日、彼女は35歳の若さで亡くなる。その年の8月31日から12月6日まで、妻が息を引き取った部屋で、妻が使っていたノートと楽器を使ってエルヴラムが作詞作曲し、録音したのが『A Crow Looked at Me』だ。収録曲は時系列に並べられていて、最初の曲は妻が他界してから1週間後、最後の曲は4か月後の場面を描いていることが歌詞の内容からわかるようになっている(実際に曲が作られた順序は前後している)。

娘がいつか学校へ行くときのためにと妻が生前に内緒で注文していたバックパックが届いて玄関先で泣き崩れる「Real Death」、かつて2人で訪れた思い出のハイダ・グワイ群島を幼い娘と再訪し、骨壺を持って涙を流しながら歩く「Ravens」など、歌詞は胸を引き裂かれるようなエピソードに満ちている。象徴的な表現を多用した過去の作品とは打って変わって、エルヴラムは妻のいない生活の中で目に映るひとつひとつの物事や自分の心の動きをありのままに観察することを通じて、一人の人間の死が持つ意味を見出そうとしている。だがそんなものがどこにもないことを彼は最初から知っている。アルバムはこのように始まる。

Death is real
Someone's there and then they're not
And it's not for singing about
It's not for making into art
When real death enters the house, all poetry is dumb
 
死はリアルだ
誰かがそこにいて、それからいなくなる
それは歌うためのものじゃない
芸術にするためのものじゃない
本物の死が入り込んだ家では、あらゆる詩は馬鹿げている

『A Crow Looked at Me』は、歌としても語りとしても成立しているようにも聴こえるその捉えどころのない、可塑性の高い音楽によって、筆舌に尽くしがたい感情すらも語り切る。語っている内容の壮絶さからは信じられないほど、エルヴラムの声には終始一貫した正気さのようなものがある。このような状況においては正気であればあるほど苦しみは増しそうだが、彼はそのすべてを進んで余すところなく受け取ろうとしているかのようだ。それは妻の不在を苦しむことが、かつて存在していた妻を感じることのできる、彼に残された唯一の手段だからなのかもしれない。アルバム冒頭の歌詞とは裏腹に死について歌うことにした理由について、彼はプレス・リリースでこのように述べている。

(妻の死によって)僕の内側で流れている時間は公共物になったように感じられた。自分が自己だったり、個人的な好みだったり、曲だったりを持つことができるという考えは、病院への送り迎えや介護や子どもの世話や悲嘆の日々が始まる以前の、もっと身勝手だった時代の名残の馬鹿げた古い考えにすぎないように思えた……僕がこれらの曲を作り、世界に向けて発表するのは、ただ自分の「僕は彼女を愛している」という声を何倍にもしたいからだ。そのことを知ってほしいからだ。