自前の海を作るには–––Sandro Perri「Wolfman」

もともと毎日がほぼ「おうち時間」のみでできている自宅労働者として、とりあえずこれまでのところ基本的な生活パターンは変わっていないのだが、それでも以前のようにはいかない場面は少なくない。カフェで集中して仕事をすることも、映画館で息抜きすることもなくなってしまったし、走る予定だったマラソン大会はことごとく中止になって記念Tシャツやタオルだけが送られてきている。普段あまりライブに行かない自分としては珍しくチケットを購入していた3月・4月のいくつかの公演もすべて中止または延期になってしまった。そのうちのひとつがサンドロ・ペリの日本ツアーだった。

彼のことを初めて知ったのは2011年の『Impossible Spaces』(Constellation)のときで、そのポップソングの枠内に留まりつつも何とも形容のしづらいジャンル拒絶的な音楽性や、即興演奏の要素を有機的に組み込んだ天衣無縫のソングライティングに、目の覚めるような新鮮さを感じたことを憶えている。あれこれ調べてみると、トロントの大学で理論について学んだジャズ、トロピカリアを始めとするブラジル音楽、そしてアーサー・ラッセルの換骨奪胎されたディスコ(別名義のポルモ・ポルポでは「Kiss Me Again」をカバーしている)が、自由さと親密さが高度に融合した彼の音楽の軸になっていることがわかってきた。

彼が2年くらい前からやっているミニマルで、東洋哲学的で、空気のように希薄な音楽も他に類を見ないものではあるけれども、サンドロ・ペリの代表曲としてファンの多くが認めるのはやはり「Wolfman」なのではないだろうか。『Impossible Spaces』に収録された10分を超える大曲で、個人的には10年代で一番好きだった曲と言われて最初に挙がる曲のうちのひとつだ。しかしこれまで歌詞などもきちんと読んだことがなかったので、ライブに行けなかった無念を埋め合わせるためにも、また手元で聴ける音楽を最大限に楽しむ練習をするためにも、今回はこの曲について見ていきたいと思う。

「Wolfman」は寓話(擬人化された動物などが出てくる教訓物語)の形をとっている。人間であるこの曲の語り手は何らかの事情があってうまく生きることができなくなってしまっており、自分がひどく脆くなったように感じていて、「泳ぎ方を忘れ」、「皮膚も失いかけている」と思っている。彼女(とここでは仮に女性として解釈する)が信じられるのは剥き出しになった身体を海水の塩分のように刺す「尽くすことのスリル(thrill of devotion)」や「内側に入り込んでくる動き(incoming forward motion)」だけで、自分から何かを求めることもなくなってしまっている。

ある日彼女がビーチを歩いていると、そこで狼男が一人きりでたたずんでいる。これまでそんなものと出くわしたことがなかった彼女は、自分がずたずたに引き裂かれてしまうのではないかと不安になる。しかし狼男がどこか疲れた様子をしているので気になって見ていると、その心配げな眼差しに気づいた狼男は彼女のことを泳ぎに誘う。そのとき狼男の目の奥に炎が宿っているのを見た彼女は、「狼男のような恐ろしい生き物でさえも、何かを変えたい、前に進みたいと思ったりするんだ」と悟り、小さな驚きを覚える。

時間的にこれより後の場面が先取りして歌われたりもしているのだが、それについては後で触れるとして、だいたいここまでが1番と2番の歌詞だ。3番では曲の雰囲気がわずかに変化し、狼男は泳ぎながらぽつりと本音を漏らす(3:50~)。

Once in a while, he turned and said
I wanna shave my face, my body and my head
I asked him why and then the well ran dry
So I zoomed in for a look
What did I see, what did I see
Clouds and sunshine and joy and pain
So I zoomed, zoomed, zoomed in again
And what did I see, and what did I see
All that which seems to be erasing me
I can choose to learn again
 
「ときおりね」と彼はこちらを向いて言った
「顔も、体も、頭も剃ってしまいたくなる」
どうしてと訊ねても、もう井戸は枯れてしまった(取りつく島がなかった)ので
わたしはその奥をじっと覗き込んでみた
何が見えた? 何が見えた?
雲と陽光 喜びと痛み
それでわたしはもっともっと深く覗き込んでみた
何が見えた? 何が見えた?
私自身を殺しかけているように見えるあらゆること
私はまた学ぶことだってできるんだ

顔や身体を分厚い毛皮で覆われている狼男は、しかしそんな毛はすべて剃ってしまいたいと思っている。皮膚を失い、外界からの刺激に対して無防備になってしまったと感じている語り手にはそれがなぜなのか理解できない。それで彼女は彼の心の奥深くを覗き込んでみる。そこには普通の人間と何も変わらない感情があり、彼女自身が抱えているのと同じ苦しみがある。少しも縁のない存在だと思っていた狼男が自分と同じものを抱えていることを知った彼女が、単にその苦しみの被害者になってしまうのではなく、そこから学ぶという主体的な選択肢もあるのだということに気づくのと同時に、寄せては返す波のように揺らいでいたこれまでの音楽は、確信を持って歩みを進める第1の間奏部に切り替わる(4:55~)。

「Wolfman」という曲の最大の特徴は、ちょうど狼男が人間と狼からできているのと同じように、異なる性質を持つ複数の楽曲が同居したハイブリッドな構造を持っていることだ。インタビューによればペリは実際に別々に作曲された曲を後から「少しマッサージして」組み合わせたらしいのだが、その最初の継ぎ目がここなのではないかと思われる。語り手の中に新しく生まれた前向きな思いを表現するこの間奏部に促されるようにして、狼男はこれまで誰にも言えずにいたつらい心境を打ち明ける。

Wolfman to I, said I don't give up myself too easily
I am just tired, now go away
He started crying, wolf, that is the oldest line
Wolf, man, and I, we are the same
Sometimes I've tried, the one about a wolf among wolves by my side
One with which I have got a way
Now I know why, the one about a wolf among wolves makes me cry
 
狼男は私にこう言った、「僕は簡単に諦めたりはしない。
ただちょっと疲れているだけさ。さあ、もう行っておくれ」
彼は泣き出した、「狼も–––こんな使い古された言い方もないけど–––
狼も人間も僕も、みんな同じなんだ。
時には『狼の中の狼』の話のことを考えて頑張ってみようともした。
僕だったらやれるかと思ってね。
でも今はわかる、『狼の中の狼』の話は泣きたくなるんだ」

「『狼の中の狼』の話」というのは、ボニー・プリンス・ビリーの2003年のアルバム『Master and Everyone』に収められている「Wolf Among Wolves」のことを指している。この曲は夫に男らしさを期待するあまり、ありのままの夫の姿が見えなくなってしまっている妻のことを歌った、いわば「男性差別」についての歌だ。「僕がこれまで一度も見たことのない、洞窟みたいに安全な隠れ家」を求めている妻は、夫のことを「狼の中の狼」として愛していて、「人間の中の人間」としては見てくれない。「Wolfman」の狼男は半分が狼であるため、それを活かしてこのようなタイプの女性に好かれる強い存在になろうと努力したこともあったが、そうしても悲しくなるだけだということに気がついた。なぜなら、トロント・スタンダードのインタビューでペリが語っているように、彼の狼としての側面は本当は強さなどではないからだ。「狼男をめぐる神話の本質は、人間であるということの意味をきちんと受け入れることに失敗した人間、ということにあると思う。誰もが向き合わなくてはならない脆さを受け入れることにね……この曲(「Wolfman」)は、この生き物が、この人物が、どうにも扱いかねている極端な脆さを表現しようとしているんだ。それを覆い隠そうとすると、こういう攻撃的な、怪物的なキャラクターが生まれてしまう」

覆い隠された脆さは恥の感覚を生み、心の一部を頑なにし、いつしか自他に対する隠れた攻撃性に、満月の夜にだけ現れる狼のようなものになっていく。ペリが言っているのはそういうことだろう。この曲で狼男が象徴しているのは、自分の中の弱い部分を認めたくないがために雄々しく振る舞って他人を傷つけ、その結果、自分自身とも他人とも調和のとれた関係を築くことが困難になってしまうという、私たちが(特にマッチョな価値観が支配する社会において男性が)陥りがちな状況である。誰も好き好んでそんなふうになるわけではない。狼男が言うように、それはみんな同じ、誰だってそうなってしまう可能性を持っている。だが一度見失ってしまった人間らしさをふたたび探し出すのは容易なことではない。

ここでまた曲調が大きく変わり、第2の間奏に入る(6:10~)。語り手との交わりを通して初めて他人の前でガードを落とし、悲しみを悲しみとして体験している狼男の脆い心と呼応するように、音数はオルガン風の音とアコースティック・ギターの2つにまで減少する。これらの音は歩き始めたばかりの赤ん坊のように頼りなげだが、確かな温もりと生きることに対する純真な喜びを湛えてもいる。生の気配に誘われるようにしてすぐにエレキ・ギターとハイハットと電子音が加わり、喜びは少しずつ祝福に似たものへ高まっていく。

やがて音楽は開けた台地に出るようにして深いベース音に支えられたクライマックスに達する。ありのままに受け入れられた弱さは、それ自体が強さであることを明らかにする。トリルを多用したギターが三味線みたいに聴こえるからなのか、私はいつもここで日本のお正月のおめでたい感じを思い出してしまう。ともあれこの新しい音楽は次の2つのフレーズを導き出す。

What does a dark night rearrange
What does a night light do to change
 
暗い夜は何を組み替える
夜の光はどうして変化を引き起こす

祝詞(のりと)のような高雅さで繰り返されるこの歌詞が誰の視点によるものなのかはよくわからない。語り手の疑問のようにも見えるし、これまで物語全体を眺めてきた歌い手としてのペリ自身によるコメントのようにも見える。光を欠いた新月の夜に世界はどのような変容をくぐり抜けるのか、そして満月の光はいかにしてそれを表面化させるのか。誰か特定の人間の言葉というよりも、石に刻まれた銘文のような、言葉が単独で空間に浮かんでいるような感触がここにはある。

いずれにせよ、その言葉は光や闇によって引きこされる変化を決して悪いものとは捉えていないように見える。途中で変拍子のホーンが入ってくるが、「生きる」という言葉のもとになったと言われる「息」によって演奏されるホーンは、そんな世界の運行そのものを全面的に肯定しているように聴こえる。「人生はクロースアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言ったのはチャップリンだが、曲の切り替えを通じて語り手と狼男の視野を少しずつ広げてきた「Wolfman」は、ここに至ってあらゆる個人的な苦痛から離れ、人間の営み全体を優しく俯瞰している。泣いても笑っても世界は変転し、隠されたものはいつか必ず表に出るときがやって来る。それを止めることは誰にもできない。私たちにできることはただその神秘に思いを馳せ、起こる変化ひとつひとつの意味について考えてみることだけだ。それが生きるということなのだ––––そんなふうに言っているように聴こえるのだ。

そして音楽はぐるりと大きな円を描き、1番から繰り返し歌われてきたコーラス部に戻る。

I wanna come to you, I wanna come
Really now, what else, what else
I wanna come to you, I wanna come
Really now, what else, what else is to be done
 
あなたのところに行きたい、行ってみたい
本当に だって、だっていま他に
あなたのところに行きたい、行ってみたい
本当に だって、だっていま他にやるべきことなんてない

語り手のように皮膚を失ってしまうような素直な傷つき方をする人もいれば、狼男のように毛皮を纏い、鋭い牙や爪を生やして自分自身からの防壁を築く人もいる。しかしどれほど見た目が違っていようと彼らは同じ脆さを抱えた同じ種族なのであり、相手の恐ろしい姿の奥に美しいものを見出すこともできれば、相手の過敏な身体を「ローションのように覆う(you covered me like a lotion)」こともできる。「Wolfman」は不幸な人間の魂についての歌である以上に、人と人との出会いの歌だ。「今日私はあなたと会った、海のように広い人(Today I saw (see) you, big as the ocean)」と曲の初めと終わりに歌われているように、人はどれだけ不幸になっても、まさにその不幸を体験しているからこそ、他の誰かにとって「海のように広く」なれる。その海によってその誰かを包み込み、もう一度泳ぎ方を思い出させることができる。時には狼男こそが人間の中の人間になるのだ。