2020年のベスト・アルバム7枚

ベスト・アルバムを選ぶのは難しい。

1枚のアルバムについて書くのに1か月以上かかる(私の場合)ディスクレビューなどと比べると、確かにこのようなリストを作るのは簡単だ。友達のために好きな曲を集めたミックステープを作るのと同じで、ああでもないこうでもないとこねくり回すのは楽しいし、あたかも自分が一大事業に取り組んでいるかのような錯覚も与えてくれる。しかし本来互いに比較することが難しいはずの芸術作品に対してお手軽に(アーティストが作品を作る努力に比べたらそれはお手軽だろう)優劣をつけることには、やはりおこがましさも感じる。他人の創作物を利用してサイトや選評者自身のアイデンティティを確立・確認しようとしているかのような気持ち悪さもある。

それと似たようなものを感じたのだろう、ミュージシャンたちが自作を自由にリリースするためのプラットフォームとして完全に定着した感のあるBandcamp(アーティストへのロイヤルティが非人道的に低いことが問題になっているSpotifyとは対照的な位置にある)は、今年からベスト・アルバムをランキング形式で掲載することをやめ、代わりに優れた作品をテーマ別に5つのグループに分類し、順不同で並べることにしたようである。その理由について滔々と述べたエッセイで、彼らは自分たちが「重要な芸術的達成」だと感じるアルバムへの注目を促すのは意義のあることだとししつも、それらをランク付けすることについてはこのように批判している。

When you assign something as hard-coded as numerical rankings to works of art, you start moving out of the realm of subjectivity, and into the realm of codifying taste.

数字で表されたランキングのような固定的なものを芸術作品に持ち込むとき、人は主観性の領域から外れ、趣味嗜好を規範化する領域に入っていく。

bandcamp.com “We’re Not Ranking Our Year-End List Anymore. Here’s What We’re Doing Instead.

難しい表現だが、要はいくら本人が個人的な「心のベスト10」のつもりで作っても、それらのアルバムが1から10までの冷たい数字によってピン留めされている限り、周りにとっては常に客観性を––––他の人たちにも自分と同じように世界を見させる影響力を––––持ったものとして機能してしまうと言っているのだと思う。それは確かにそうなのだろう。例えば50位や100位まであるランキングを見て、「うーん、46位なら聴くほどのものでもないか」と思ってしまったことは私自身、何度もある。ランキングは誰もが予断を持たずに音楽を体験する自由を無意識的なレベルであれ損なってしまう可能性があるのだ。無数の作品が乱立する目まぐるしい状況にわかりやすい地図を与えてくれるという意味では、音楽シーンに親しむための第一歩にはなり得るかもしれない。しかしその「音楽シーン」がこうしたランキングなどの集積によって恣意的に作られたものであるという事実は忘れられがちである。

もちろんBandcampの人も自覚しているように、たとえランク付けしなくても、「ベスト」と呼ばれるアルバムを決めて公表すること自体に選評者の趣味嗜好を規範化する側面はある。リストの正しさをいくらかなりとも信じる人にとって、そこに選ばれなかったアルバムはそのぶん評価が低くなるだろう。単にランキングと比べれば規範化の程度が低いというだけだ。その種の影響力がゼロに近いこのような個人サイトでも、罪の意識と無縁ではいられない(社会性は考慮せず個人的な好みだけで決めているとはいえ、今年は黒人アーティストの作品を1枚も選べなかった)。ベスト・アルバムという企画自体がどうなのかと考えもした。

ただやはりたくさんの音楽を選り好みせずに聴いている人が真剣に作ったベスト・アルバムのリストを眺めるのは楽しい。自分一人では見つけられなかったかもしれない大切な作品と巡り合えることだってよくある。それに、このようなジレンマを解消するための方法だってなくはないのではないか。それは、可能な限り多くのリストに目を通すことだ。個々のリストには偏りがあっても、数を重ねることによって総合的に見えてくるものはあるだろう(それを受け入れるかどうかは別として)。共通して高く評価されている作品を探してみるのもいいだろうし、ジャケットを見たり試聴したり寸評を読んだりして少しでも気を引かれるものがあればアルバム全体をBandcampやYouTubeや各種のサブスクリプション・サービスを使って聴いてみるのもいいだろう。

長々と書いてきたが、結局は自分の頭で考えながら一番自分らしいと思う方法を探していくしかない。実を言うと以下に挙げる作品も一度は1位から7位まで並べてみたのだが、いつまで経ってもしっくりとくるランキングはできなかった。それぞれの作品は私の中の異なる部分を豊かにしてくれるし、確かにその「豊かにしてくれる度合い」には作品ごとに差があると言えばあるのだが、その度合いも日ごとに変わる。仮にこの1か月間の雰囲気で順位をつけてみたとしても、来月には気が変わってしまいそうである。そのようなものを発表するわけにはいかない。五十音順に並べることにした。


Adulkt Life『Book of Curses』

4月にレビューしたハギー・ベアのボーカリスト、クリス・ロウリーが11月にこのアルバムをリリースして26年ぶりに活動を再開した。私の中では完全に歴史上の人物になっていたので、ニュースに接した時には目を疑った。「アダルト・ライフ」(という読み方でいいようだ)というバンド名の通り、歌詞には父子関係のものが入ってくるなど変化が見られるが、55歳になった現在もパフォーマンスはほとんど変わっておらず、ハギー・ベアのラスト・アルバムの翌年にレコーディングされたと言ってもわからなさそうだ。確かに昔のような圧力の高い鬱屈感とその反動としての爆発力は弱まっている。しかし時を経て改めて確認したのは、胸に抱いている思いとそれを歌に変換するための公式のようなものがどんなアーティストにもあるとして、私は彼のそれが好きなのだということだった。パンク畑の人なので音楽表現の動機には常に激しいものがあるのだが、強い感情のために表現がどれだけ過激に流れても冷静な目を失うことがない。理性を失っていくさまを理性的に、まるでアナウンサーのように明晰に物語るようなところがある。

K-LONE『Cape Cira』

プロデューサーのジョサイア・グラッドウェルがイギリスの陰鬱な冬からの空想的逃避のために作った、架空の土地のサウンドトラック。生楽器とも電子音とも区別のつかない(両者が巧妙に織り交ぜられている)、ゴムやフェルトでくるまれたような硬すぎも柔らかすぎもしない音が、上手なマッサージのように強すぎも弱すぎもしないアタックで鳴っている。私は特に共感覚を持っているわけではないが、このアルバムから想起する色も比較的はっきりとした感情と結びついている赤や青や黄色などの寒暖色ではなく、その中間にある緑や紫である。改めて考えてみると、さまざまな場面でわかりやすさが好まれ求められる現実世界において、このような完璧な「中間性」はほとんど存在しない。極端と極端の中間にあってその曖昧さに耐え、その複雑さを理解するアリストテレス的中庸そのもののような大人の音楽である一方、いい歳して「カワイイ」という言葉を使ってしまいたくなるほどアートワークも含めすべてが愛らしい。アルバム冒頭で4つ打ちだったビートは、ポコポコトコトコモコモコ進んでいくうちに瞑想者が無の世界に入っていくように徐々に揮発していき、最後の曲では完全に消えてしまう。それは充実した時間の経過そのもののようだ。

Phoebe Bridgers『Punisher』

収録曲の「Kyoto」は現在グラミー賞で2部門にノミネートされているが、その題名に限らず、フィービー・ブリジャーズの音楽は全体としてどこか日本の職人芸的なものを感じさせる。曲の構造はそんなに直球でいいのかと不安になるほど正統的。しかし美しいアイディアの閃きや編曲上の細かな工夫が随所に凝らされていて、各曲のエモーションが繊細に持続するようになっている。何より、バラードもロック・ソングも少しずつ音が小さい。元気な音を出しているときにもそれは「これは元気な音ですよ」という意図が伝わる最低限の大きさで(アルバム最後を除く)、他人のパーソナル・スペースを侵さないその控えめさが作品全体にアメリカのミュージシャンとしては少しめずらしいくらいの脆さの感覚をもたらしている。そこには「彼の音楽は私にとってビートルズのようなもの」と彼女が語るエリオット・スミスの影響もあるのかもしれない。事実タイトル曲では、もし自分が生前のエリオット・スミスと出会っていたら、パニックになって彼が嫌っていた「相手のことを考えずに自分の思いの丈を延々しゃべり続ける人(punisher)」になってしまったのではないかという不安と抑えきれない愛着について歌っている。頼りなくも人の心に確実にその残像を焼きつける、蛍の光のような作品。

Fiona Apple『Fetch the Bolt Cutters』

前作までの時点ですでに「ジョニ・ミッチェルやボブ・ディランのレベルにあるシンガーソングライターとして認知されつつあった」(ニューヨーカー誌)フィオナ・アップル。彼女が今年8年ぶりにリリースしたアルバムもメディアのあいだでは飛び抜けて評価が高かった。型破りな打楽器の数々(自宅の床や壁や椅子や土を入れたオイル缶や焼いた豆の莢や愛犬の遺骨など)に注目が集まっているが、蛇のようにうねるピアノや地の底から這いあがってくるおどろおどろしいベースも斬新で、素材のすべてを一から育てて作った料理のごとく、いまだかつて誰も聴いたことのないような音楽になっている。語られているのは中学時代のいじめ、支配的な元恋人たちとの関係、批評家や業界の権力者との不快な体験など個人的なトラウマに関するものが中心になっているが、彼女はただで折れることなく、その多くを自分と同じような体験をしているはずの女性たち––––しばしば男性中心の社会において互いに孤立している––––との連帯を築くことによって乗り越えようとしている(彼女は自身のレイプ体験を90年代の段階で公に語っていた数少ないミュージシャンの1人でもある)。その良さを本当に理解するには多少時間がかかるかもしれないが、もし私たちがそれを望むなら、私たちの中に新しい感受性のアンテナを作ってくれる、最もクリエイティブな種類の音楽。

冥丁(Meitei)『古風』

大衆文化に対する鋭い批評眼とストイックな方法論を携え、「失われた日本のムード」というテーマのもと、音を頼りに歴史に深く分け入っていく唯一無二の作品を発表してきた冥丁。3部作を締めくくる『古風』では過去へ沈み込んでいくだけでなく、その暗がりの中に住む人々を現在の光を使って幻灯機のように妖しく朧気に浮かび上がらせている。主軸を成すのは「花魁I・II」や「貞奴」、「女房」などそれぞれに過酷な環境を生き抜いた女性たちを扱った曲。ヒップホップ風のビートを使用しているが、中心となっているのは古い音源からサンプリングされた声があらかじめ含んでいる情感であり、すべての音がそれをできる限り純粋なまま抽出するために捧げられているように聴こえる。抽出された情感––––秘められた悲しみや願いのようなもの––––は聴き手のパーソナルな悲しみや願いと共鳴し、まるでこの世を去ってからすでに長い年月が経過している人々と深く恋に落ちているかのような錯覚を与える。そしてそれは二度と戻ることのない時間への悼みの感覚を喚び起こし、私たちの生きているこの瞬間をも輝かせる。歴史の長い線の上に私たちの心を再定義するような彼の音楽は、この国に生きるということの意味をこれまで考えたことのない角度から考えさせる。

Moment Joon『Passport & Garcon』

今年聴いた中で最も勇気あるアルバム。韓国からの「移民者ラッパー」としての彼の不安定な立場やアイデンティティを表すように、歌詞とトラックは曲ごとに、さらには曲の中で、大きく変容する。だがそれだけではない。冒頭の「KIX / Limo」で弱気だった彼の声が入国審査を通ることで一瞬にして極端に強気なものになるように、声の調子も絶えず揺らいでいる。それは大人びていることもあれば子どもじみていることもあり、皮肉っぽいこともあれば冗談めかしていることもあり、ステレオタイプな韓国人を演じていることもあればファンから期待されている自分を演じていることもあるが、「素直になればなるほどそれ自体がギミック/とっくの前に信じなくなった自分のリリック」と「Hunting Season」にあるように、実際のところどの声がどの調子であるのか、聴く者はおろか彼自身にも判断のつきかねるような不透明さがある。そんな本質的な「定まらなさ」を持つ彼の声は、それを聴いている私たちの姿を万華鏡のように複雑に反射しながら、時に彼が描写する日本社会と重ね、時に彼自身の姿と重ね、多くの場合そのどちらでもない未知の地点に放り出すことによって、私たち自身の立場やアイデンティティにも根本から揺さぶりをかけてくる。「コンシャス・ラッパー」(社会的・政治的な問題に意識的なラッパー)というレッテルを貼られることを彼はあまり好んでいないようだが、この大変なアルバムを希望とともに締めくくるモーメント・ジューンは、少なくともこの言葉の最もシリアスな意味において「コンシエンシャス(良心的)」なラッパーと言えるのではないか。

Rian Treanor『File Under UK Metaplasm』

失業者であふれるイギリス北部の町ロザラムで生まれたライアン・トリーナーは、娯楽と言えばショッピングセンターしかない退屈な環境で「何か他にやりたいと思えることはないか」と考えながら育った。幸運なことに、少し足を延ばせばレイヴ文化の中心地であり、かの<Warp>レーベルの創設地でもあるシェフィールドの街があった。さらに幸運なことに、彼の父親は90年代から電子音楽にグリッチの要素を取り入れてきたことで知られるSNDのメンバー、マーク・フェルだった。周囲の人々が不景気と空虚さに耐えかねて酒やドラッグに溺れていく中、トリーナーはエレクトロニック・ミュージックに希望を見出す。ウガンダのレーベル<Nyege Nyege Tapes>が開催したフェスティバルに招かれたことをきっかけに作られたこの2ndアルバムでは、タンザニアの音楽ジャンル「シンゲリ」を欧米の連綿たるダンス・カルチャーと融合させた、世にも奇妙なサウンドを持つダンス・ミュージックを生み出している。「知的なダンス音楽」を意味するジャンル「IDM」に対して、「たぶん『馬鹿なダンス音楽(stupid dance music)』と言ったほうが近いかもね」と彼自身が形容するその音楽は、聴く者を予想外の仕方で衝き動かし、本人すら気づいていなかった扉を開ける––––。2021年新春レビュー予定(レビューしました)。


最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。