死角からの訪問者–––Rian Treanor『File Under UK Metaplasm』

音の質感そのものに驚かされる音楽がある。美しいメロディーやハーモニー、心地よいループ感やグルーヴ感、展開の妙や曲全体の持つ物語性に先立って、個々の構成音の響き方それ自体によって人を圧倒してしまう音楽が。古くはストラヴィンスキーの『春の祭典』がそうだろうし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Sister Ray」はそのロックの分野における嚆矢だろう。個人的な経験としては、大学生の頃に初めて聴いたオウテカの『Tri Repetae』やマイルズ・デイヴィスの『‘Four’ & More』、ハーバートの『Bodily Functions』などには、「世の中にはこんな音楽もあるんだ」と目を開かされた。サウンド・エンジニアでも音響学の専門家でもない自分には、音が音の輪郭からはみ出してしまっているような、音がそれ自体の持つ熱によって溶け出してしまっているようなこの種の生々しいサウンドがどのようにして成り立っているのかはよくわからない。

しかしそれらがなぜ強い印象を残すのかについてはある程度推測することができる。それは、こうした音がその独特な「風合い」によって、普段はあまり意識されることのない、人間精神の、あるいは人間社会の、特殊な状況のようなものを描き出すからではないか。例えばオウテカは極度に高度化したテクノロジーの持つ官能的ななまめかしさを、マイルズは本来区別されるべき生命力と暴力性の呪術的な混ざり合いを、ハーバートは分解と合成を繰り返しながら自らを維持している私たちの身体の曖昧な境界線を。ストラヴィンスキーとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲の中ではいずれも人が1人死ぬが、前者では土着信仰のために、後者ではヘロインの作用のために、その命の重さはゼロに等しいものと見なされている。一言でいえば、こうした音楽はどれもあやうい。私たちが日々当たり前のものとして頼りにしている意味の足場が突如として崩れ去り、何かがその何かではなくなり、誰かがその誰かではなくなってしまう、破局の予感のようなものを含んでいる。

そのような音楽はもはや作曲家や演奏者の内面の表現にすら聴こえない。それはどこからともなく、私たちの死角からやってくるかのようだ。まるで人をさらってどこかへ連れて行く、得体の知れないエイリアンのように。


イギリスのプロデューサー、ライアン・トリーナーの2ndアルバム『File Under UK Metaplasm』(2020, Planet Mu)は、そんな「音の外部性」を極端に高めた作品だ。音作りの面において大きな自由があるエレクトロニック・ミュージックの分野でも、ここまで音色のパレットを拡げることにこだわった作品は少ないのではないか。だがそれはいわゆるクラブゴーアーたちが素直にカッコいいと感じるようなタイプのサウンドではない。そこには無機物がマッド・サイエンティストによって命を吹き込もうと繰り返し試みられ、あと少しで本当に生命体になってしまうぎりぎりのところで止められたような「不気味の谷」的な禁忌感とキモかわいくなさがある。

アシッドハウス由来の無定形に蠢く湿ったメロディーとは対照的に、あっけらかんと乾いたワイルドなビートはフットワークやジャングル、ガバ、ガラージなど90年代初頭に大西洋の両岸で相次いで出現した多様なスタイルを感じさせる。その意味では『File Under UK Metaplasm』はクラブ・カルチャーの入門書のようにも専門書のようにも見えるが、Bleepのレビューにある通りここでは「ありとあらゆる高速のダンス・ミュージックが息もつかせぬエネルギーで脱構築および再構築」されていて、結局どの学習段階にいる人間にも理解不能なものになっているかのようだ。音数は決して多くなく、音像は「どんがら」の状態に近い。にもかかわらず、曲の中で何が起こっているのか、それぞれの音がどんなつもりでそこに存在しているのか、容易に掴めないのである。

「僕は自分でも何なのかよくわからないものを作ろうとしているんだ」とトリーナー自身も過去にResident Advisorのインタビューで話している。また本作のプレスリリースで彼は、「いまだにクラブ向けの機能的なダンス音楽を作ることに意識を集中してはいるけど、それを『これはもう嫌だ』となる手前のところまで持っていくことにとても興味がある」と語っていて、『File Under UK Metaplasm』の正体不明さが彼自身のデザインによるものであることがわかる。しかし自分がわからないものを自分で作るというのは端的に言って矛盾であり、だからこそ優れた創作者にとってはしばしば創作活動上の目標のひとつになるわけだが、そのためには何かしらマジカルな領域に––––創作者自身がいったん方向感覚を失うような未知の状況に––––足を踏み入れる必要が出てくるだろう。その点において本作に最も貢献していると思われる要素、それがタンザニアの新しい音楽、シンゲリ(singeli)だ。

2005年頃にタアラブを始めとする既存の音楽ジャンルから派生して以来、首都ダルエスサラームでは学校で催されるダンスパーティーから政治家の選挙運動にまで用いられるほどの人気を博しているシンゲリだが、ヨーロッパからの2人の移民によって2016年に創設された隣国ウガンダのレーベル<Nyege Nyege Tapes>がコンピレーション盤『Sounds of Sisso』(2017)を皮切りに野心的な新進アーティストたちの作品を相次いで紹介したおかげで、このところ世界的に注目を集めている。その最大の特徴は、国民の約44%が15歳未満というタンザニアの若いオーディエンスの屈託のない熱狂をあらかじめ織り込んだかのような驚異的なスピード(180~300bpm)だ。時に日本の祭囃子にも似たシャッフル・ビートには自我の軛を一時的に解除するトランス感があるが、人間が物理的に刻むことの不可能なそのテンポはそれ自体すでに何か人間ならざるものを表現しているようでもある。

2018年、ヴィクトリア湖畔で毎年開催されているレーベル主催のニェゲ・ニェゲ・フェスティバル(この年ウガンダの大手旅行会社から国内最高の観光イベントとして表彰されている)に招待されたトリーナーは、東アフリカの音楽にじかに触れ、その後も地元のクラブでDJなどをしながら数週間レーベルのスタジオに滞在している。過熱した頭のまま帰国した彼はその「強烈な体験」に自分なりの回答を与えたいと考え、1週間のうちに10曲ものトラックを作り上げる。それから1年ほどかけて推敲を重ねていき、2019年の終わりに来日した際(グリッチ・デュオSNDのメンバーであり、彼の父親でもあるマーク・フェルとともに来日)には日本のハイエンドなサウンドシステムを使って細部を緻密に調整したという。タンザニア(およびウガンダ)と日本という対極にある環境からのインプットの融合––––彼の言葉を借りれば「荒っぽいパターン・メイキングと冷徹なプロダクション・プロセスという2つのアプローチの奇妙な衝突」––––の結果が『File Under UK Metaplasm』なのだ。

ただ、このアルバムにおいてシンゲリの特徴が明確に出ているのは1曲目の「Hypnic Jerks」くらいで、その他の曲では少なくとも表面上の類似はさほど見られない。本家のシンゲリが比較的ミニマルな構造を持っていて音響的に安定しており、一度耳が慣れてしまいさえすれば流して聴けるようなところすらある(つまり機能的なダンス音楽の「お約束」が守られている)のに対し、『File Under UK Metaplasm』ではテクスチャーの急激な変化に加え、リズム的にもメロディー的にも複数の焦点が存在しているように感じられることが多く、その全体像は捕捉しがたくその展開は予測しがたい。トリーナーは「この作品では僕はただ本当にダンサブルなものを作ってみたかったんだと思う」とSHAPEの取材に対して話しているが、彼が実際にやっているのはそれとは真逆のことのようにも思える。一般的なクラブ・ミュージックとはあまりに容貌を異にしているのだ。

では聴き手を踊らせようという彼の試みは失敗しているのか。私にとって、その答えはイエスでありノーである。特に「Debouncing」や「Mirror Instant」などのシングル曲に耳を傾けるとき、私の身体はけっこう動く(自分の身体のことを書くのは恥ずかしい。でも他に身体がないのでしょうがない)。しかしそれはあくまでも「動く」であって、「踊る」ではない。心身が気持ちよく一致して音に反応する「踊る」とは違って、身体の動きは突発的で脈絡がなく、心はぽかんとしたまま、それが何を意味しているのかわからない。穏やかでない喩えだが、それはギャング映画などで自動小銃で撃たれた人の身体が踊って見えるのに似ている。身体は底の底から揺さぶられる。でも本人は動こうと思って動いているわけではない。

その原因はまさにこのアルバムの理解不能性や捕捉不能性、予測不能性にあるだろう。コントラストのある構成の耳慣れないサウンドが高速でコントラストのある変化の仕方をするため、情報の量と質が人間の処理能力を超えていて、聴く者は一度頭のスイッチを切り、考えるという行為を停止するほかないのだ。そして音の赴くまま、機械のように反応していくとき、私は自分の身体が理性以前の独自の論理を持っていることを知る。それは誤解を恐れずに言えば、「怒り」のようなものだ。身体というあらゆる精神活動の土台そのものから奔出する未分化の感情。リミットが外れていくような、自由を渇望する本能の暴走寸前の、どこかしら涙すら誘う圧倒的な熱狂。アイスランドのストロックル間欠泉が熱湯を上空に吹き上げるのを見たときに、「なんだやっぱり怒ってていいのか」と感じたというエピソードをオードリーの若林さんが最近文庫化された旅行記で書いていたが、『File Under UK Metaplasm』が引き出すのはそのような種類の怒りである。

具体的な技法というよりはその過剰の精神、その超人的なエネルギーによって、シンゲリは『File Under UK Metaplasm』でこうした「熱源」へのポータルとして機能しているように思える。しかし熱いものが生まれ、熱いまま保たれるのは、それが地中深くにあるからだ。「Metrogazer」などモノトーンでシリアスな中盤の3曲や、他と比べて異質なほど単調なリズムを持つ最終曲「Orders From The Pausing」からは、シンゲリの解放感とは真逆の、分厚い表土の存在が窺われる。これらの曲もダンサブルと言えばダンサブルなのだが、それはうつむいて目を閉じたまま踊る、熱いものが表に出ないまま白熱して煮えたぎるような極めて内省的なダンスだ。この重苦しい閉塞感は、産業という産業が衰退したイギリス北部の町ロザラムの公営団地––––「ショッピングセンターに遊びに行くか、ドラッグや犯罪に走るか、クリエイティブな活動をするかしかなかった」とトリーナーは語っている––––で彼が生まれ育ったことと無関係ではないだろう。アルバムのタイトルに「UK」という言葉が含まれていることからもわかるように、彼の問題意識はどこまでもイギリスのものだ。

※「File Under UK Metaplasm」は「<UK Metaplasm>の項にファイリングせよ」という意味。「Metaplasm」とは言葉の綴りや発音が時代とともに特殊な変化の仕方をする「語形変異」のことで、このアルバムの奇異さをよく表している。

父親とともに受けたThe Quietusのインタビューで、トリーナーは「僕らは2人ともソーシャルメディアとは違う方法でみんなをつなぐことについて考えていると思う」と話し、マーク・フェルは「私たちはみな物理的にかなりの程度引き離されているが、テクノロジーを使ってつながり合っている。でも私たちが使っているテクノロジーはひどく有害なソーシャルメディアのプラットフォームだ––––フェイスブック、ツイッター、こういうのは本当に人に悪影響を与えると思うんだ」と補足している。現実生活における関係の希薄化と反比例するように人々のあいだの仮想的な距離が著しく狭まり、自分が本当は何に苛立っているのかを理解する前に他人へ怒りの鉾先が向いてしまいがちな屈折した時代において、泣きじゃくる赤ん坊のような『File Under UK Metaplasm』のまっすぐな怒りは、どこからともなく現れ、私たちをさらう。それが連れて行く先がどこであれ、私たちが自分の内面に囚われ、いたずらに操られてしまうことはもうないだろう。こびりついた意味は解体され、私たちは再び自由な目で世界を眺めるだろう。