2019年5月にデビュー・アルバム『1000 gecs』(Dog Show Records)をリリースしてからの数か月、その反響は100 gecs(ワン・ハンドレッド・ゲックス)のディラン・ブレイディとローラ・レスにとって予想外のものだった。まだ無名だった2人の音楽に対して熱烈なファンベースが形成され、彼らが示し合わせてツイッターのトレンドに「#1000gecs」を入れたり、アルバムのジャケットに写っている松の木を特定してGoogle Maps上で「Place of worship(参拝所)」に指定したりといった局所的なセンセーションが起こったのだ。7月にアップされた収録曲「money machine」の映像も彼らの人気の広がりに拍車をかけ、その視聴回数はこれまでに100万を超えている。
聴く者を引き込む『1000 gecs』の不思議な魅力を分析するにあたって批評家たちは何かに駆られるようにありとあらゆるジャンルを持ち出し、レビュー欄ではポップ、パンク、スカ、メタル、トランス、トラップ、チップチューン、ドラムンベース、ダブステップ、エレクトロクラッシュに加え、グラインドコア、ナイトコア、ハッピー・ハードコア、バブルガム・ベース、ディコンストラクテッド・クラブといったカジュアルな音楽リスナーには耳慣れない用語が乱れ飛んだ。サウンド面ではスレイ・ベルズ、スクリレックス、3OH!3、コンセプトとしてはグライムズやヴェイパーウェイヴや<PC Music>レーベルなど、彼らの先駆となる存在のいくつかについても指摘されたものの、100 gecsの音楽の正確な起源を突き止めるにはそれらだけではあまりにも不十分だった。ニューヨーク・タイムズは「その参照先は100を優に上回るだろう」と記事の冒頭であらかじめ牽制した上で、数組の類似するアーティストたちの名前を挙げるにとどめている(この記事を書いた記者は年末に『1000 gecs』を年間ベストアルバムの1位に選出した)。
その音楽史的な位置づけはさておき(それは音楽の良さとはあまり関係がない)、『1000 gecs』はとにかく新しい。でもそれは単に100 gecsが上に挙げたような比較的近年出てきたスタイルの数々を採り入れているからではないだろう。彼らはアルバムの中で、それぞれの曲の中で、一度打ち立てたスタイルに拘泥することなく次々に自らを変化させていく。脱ぎ捨てた殻に一瞥もくれることなく、また次の殻を脱ぎ捨てていく。横スクロールアクションゲームをプレイするように、落ちていく足場から足場へ素早く跳び移っていく。そのスピードの感覚が本質的に古さを拒絶しているのだ。
言葉、食べ物、ファッション、どんな分野においてもそうであるように、流行の最先端にあるものほど古びやすい。新しくあろうとするものには宿命的に古さの影が忍び寄る。その一方で100 gecsは、最先端の形式(さらにはメタルやスカなどの伝統的な形式)を隆起しては崩れ去っていく波として捉え直し、歌によってその上をサーフィンするような作り方をしている。流行の流行性、形式の形式性を遊んでいる。だからアソートメントの菓子のように詰め込まれた、聴く者の耳を捉える文字通りの意味で「キャッチー」なサウンド群は、そのどの1つを取っても彼らを定義するサウンドというわけではない。本体は波ではなく、その上に立ち、意味のうねりを切り抜けていく人間だ。さらに念の入ったことに、その人間の顔は仮面によって隠されている。ヴォーカルには全面的にエフェクトがかけられて、歌い手の肉体性が消されているのだ。
『1000 gecs』にまれに見るフレッシュさを与えているこのような「虚実の入り乱れ方」を、私たちは別のどこかで知っているような気がする。新しい情報が全方位から狂ったように入ってきて、それらがさまざまな立場や思惑や感情をきらきらと反射させながら、どこか実質を欠いていて、人間の声が生のまま伝わってくることは滅多にない場所。そう、もちろんそれはここ、インターネットである。100 gecsは明らかにインターネットを通してではなく、インターネットから音楽の作り方を学んでいる。「僕らは2人とも信じられないくらいネットに入れ込んでるから、そのことを歌わないのは不可能な気がする。それは僕らの人生の一部だから。一番大きな一部かもしれない」とトラック担当のディラン・ブレイディはオンライン・メディアのThe Outlineに語っているが、このとき彼は歌詞の内容だけでなく、方法論のことまで含めて言っているのではないだろうか。
歌詞について言えば、着信音をめぐる男女のすれ違いについて歌った「ringtone」や、「湖へ行って携帯を投げ込んでしまいそうな気分(I might go and throw my phone into the lake, yeah)」というパンチラインを含む「800db cloud」など、『1000 gecs』の収録曲の実に半数以上に携帯電話のモチーフが現れている。スマートフォンの普及によってもはや取り返しがつかないほどに作り替えられたここ10年ほどの私たちの生活、互いに繋がれながら引き裂かれているという人間関係の普遍的な本質が日常レベルで実感されるようになった生活の幸不幸は、このアルバムに流れる1つの通奏低音のようなものになっている。ローラ・レスはそんな状況に振り回される私たちへの共感とも揶揄とも取れる一節を最終曲の「gec 2 Ü」で繰り返し歌う。
I can see it right now
Sitting all alone, and you call me on the phone
And you say, "I need love, can you get to me now?"
目に浮かぶようだよ
あなたが一人きりで座っていて、私に電話をかけてきて
「愛が必要なんだ、僕のところに来てくれるかな?」って言うのが
改めて『1000 gecs』の歌詞を見渡してみれば、そこで歌われているのが金銭的な不安感(「745 sticky」、「stupid horse」)、異なる考え方を持つ人々との軋轢(「money machine」、「hand crushed by a mallet」)、恋人に依存したくなる気持ちと依存される側にかかる重圧(「ring tone」、「gecgecgec」)など、ごく身近な悩みであることに気づく(ローラ・レスはアルバム制作中もレストランでフルタイムで働き、ヴォーカル・パートのすべてを自宅のクローゼットの中で録音したという)。今の時代はこうしたトピックすべてにインターネットの存在が深く関わってくるため、100 gecsの音楽もそれに合わせるように幾重にもプロセスされた形でアウトプットされてはいるが、彼らの考え方は基本的に地に足の着いた真面目なものだ。ローラ・レスは上と同じインタビューでこう話している。「多くの人はこのアルバムをインターネットについての壮大な声明みたいに考えるかもしれない。もしそんなものがあるとしたら、それは単純に私たちがそういう人間だから。私たちはただ完全に真摯(earnest)になろうとしてるだけ––––たとえそれが馬鹿げたことだとしても、私たちは真摯になろうとしているんだと思う」
その真摯さが悩みの深さに冒されてひとりよがりな深刻さに堕してしまわないのが100 gecsの良いところだ。あちこちから面白いものをかき集めてくる子どものように偏見のない感性。爛熟してきた様式を発酵させてそこから酒を作り出すような発想の切り替え。しかつめらしい顔をしてヒップな文化を追いかける人々の頭上を笑いながら飛び越えていくような鷹揚さ。こうしたことを可能にしているのは、方向性の異なる音楽同士を1つの作品としてまとめきる腕力の高さであり、潤沢な音楽的資源、つまり音楽への愛だ。FADERのインタビューでディラン・ブレイディは『1000 gecs』のことを「ベスト盤みたいなもの」と表現し、ローラ・レスも「私たちは二人ともただの音楽ファンで、だからそんな風に作るしかないの」と続けている。好きな音楽を聴き、自分の聴きたい音楽を作りながら楽しく暮らしていきたいという素朴な思いが、ややともすれば鬱屈したものになってしまいかねないこのアルバムに一本筋の通った明るさをもたらしている。
その明るさが最も素直に表現された「stupid horse」では、レースで賭けた競走馬が負けたために激昂して騎手から金品を奪い取り、その馬を駆って家まで帰る話が歌われる。この曲の主人公と同じように、100 gecsは『1000 gecs』で多くの個人的な事情や問題を抱えながらも、情報社会の目まぐるしい日常をなんとか乗りこなそうと––––タイトルが示している通り––––自らの限界を超える力で奮闘している。このアルバムがカルト的な人気を博している一番の理由はこのあたりにあるのではないか。好むと好まざるとにかかわらずインターネットという「馬鹿な馬」とともに働き、人間関係を築き、夢や目標に向かっていかなくてはならなくなってしまった私たちにとって、『1000 gecs』はぎりぎりのところで毒を薬に変えた、ワクチンのような働きをしているように感じられるのだ。そのような生活の猛烈なスピードとうねりの感覚に圧倒されたり酔ってしまったりすることのないよう、あらかじめ抗体を作ってくれるような働きを。
ディラン・ブレイディとローラ・レスはともにセントルイス出身。2012年に共通の友人のホームパーティで知り合ったが、その後大学進学などの理由から現在ブレイディはロサンジェルス、レスはシカゴに住んでおり、『1000 gecs』の8割はメールでのやりとりを通して作られたという。ヴォーカルを加工しているのは自分の声が好きではないからだと話すレスはトランスジェンダーでもある。100 gecsというプロジェクト名は彼女がネット通販でヤモリ(gecko)を1匹注文したところ、何かの間違いで100匹届けられてしまったことからつけられたそうだ。
※2020/11/22追記 2019年8月から存在していたSpotifyの人気プレイリスト「Hyperpop」(メイン画像は当初100 gecsだった)を100 gecsが今年7月に正式にキュレーションして以来、彼らの音楽はこの新ジャンル「ハイパーポップ」に分類されることになったようである。