身体に開く扉の向こうへ–––裂けた音楽とスティーヴ・ライヒ「Come Out」

音楽は関係の上に成り立っている。1つの音と、それと一緒に鳴る別の音との関係。1つの音と、その次に鳴る音との関係。和音もメロディーもリズムもアンサンブルも、すべて複数の音が関係し合うことによって初めて存在することができる。音楽とは、時間と空間の中で個々の音がどのように連なり、どのように重なっているか、その変化を楽しむものだ。変化が全くないもの、例えば音程も音質も音量も変わらないまま鳴り続ける単音は、音楽とはたぶん言えない。

その意味では私たちは音そのものというより、音と音のあいだの「隙間」と、そこからにじみ出てくる「意味」に耳を傾けていると言えるのかもしれない。一般的に、隙間はあまり目立ちすぎないほうがいいようだ。音同士が近すぎず遠すぎず、ちょうどいい距離感を保ったまま、たまには意外な動きを見せたりもしながら、ある決まった範囲の中で変化していったほうが優れた効果を生みやすい。サッカーの陣形と同じだ。大多数の曲は表現しようとしている何かに向かってすべての要素が調和し、一丸となっているように聴こえる。

ところが隙間が無さすぎて音同士がぶつかり合ったり、隙間が広がりすぎて「裂け目」のようなものになると、音楽は意味がわからなくなってしまう。音のあいだの関連性が見えにくい無調音楽やフリージャズやノイズ・ミュージックが「難解だ」とか「わからない」とか言われやすいのはそのためだろう。しかし私が最近好きになった音楽の中に、裂け目を含んでいるように感じられるものが3曲あった。調和を失った音楽がなぜ魅力的になり得るのか、それは何を表現しているのか、まずは1曲ずつ取り上げながら考えてみたい。

Asake「2:30」

情趣あふれるヴォーカルラインが心地良い、言ってしまえばわりとよくある「感じのいい」曲。その穏やかな音の空間に、何の前置きもなく奇妙なビートが現れる。リズムもおかしいし、質感も変だし、音量も大きすぎる。歌やその他の楽器との関連もほとんど感じられない。まるでアフリカの大平原の中空に突然ワームホールが口を開け、その黒々とした穴の奥から別の惑星の音楽がこぼれ出してくるような極端な場違いさがある。

アメリカの音楽メディアThe FADERがこの曲について「青々としたドリーミーなアフロビートがIDM寄りの過活動なパーカッションと出会った、極めて満足度の高いテクスチャー間の衝突(lush, dreamy Afrobeats meet with hyperactive, IDM-adjacent percussion, a supremely rewarding collision of textures)」と端的にまとめている通り、この種の著しく人工的なビートはIDMを始めとする一部のヘッドフォン向きの音楽においては決して珍しいものではないが、この曲の場合もともとの方向性が伸び伸びとした有機的なものであり、いわば「フリが効いている」ために齟齬が生じて音楽が裂けてしまう(ビートが消えると何事もなかったかのようにまた元の一枚岩の音楽に戻る)。

このような音楽ができる脈絡を辿れば、「このところ世界的に隆盛を誇っている南アフリカ発の音楽ジャンル『アマピアノ』の最大の特徴とされるログ・ドラムを音響的に遊んでいる」などと説明はできるのかもしれない。しかしその音響的な遊びから生まれているもの、この曲がやろうとしていることは何なのだろう。「右手がやっていることを左手は知らない」という聖書の言葉そのままに、異なるストーリーが同時並行で走っていて、聴いているとまるで脳が2つに分割されてしまうような感覚を覚える(分割されてるけど)。

bar italia「Nurse!」

ある人物に傷つけられた過去に縛られ、生きる喜びを失っている人についての歌。その苦しさの輪郭をなぞるように、各小節の頭にアクセントが来る重々しい歌のメロディーが停滞感のある4ビートのギターに乗る。ところがサビに入ると歌はシンコペーションして裏拍が強調されることで途端に軽快になり、ギターはダンサブルな16ビートに変わって、まるで違う曲に変貌してしまう。ついでとばかりにヴォーカルも交代している。

上のアシャケの曲が同時に鳴る音のあいだの空間的ギャップを含んでいるとしたら、こちらの場合は異なる曲調が順番に現れる時間的ギャップとでも呼ぶべきだろうか。歌詞の中では一続きの話が語られているので別の世界が現れるというほど大きな断絶でもないが、場面が切り替わるような効果が面白い。

boygenius「Cool About It」

サイモン&ガーファンクルの「The Boxer」から借用した朴訥なメロディーと、2番の途中から入ってくる3人のメンバーたちによる繊細なハーモニー。裂け目どころか、これほど美しく調和した曲も他にあまりないだろうという印象を受ける。しかし音楽とは対照的に、終わりかけている恋愛関係について歌った歌詞は、主人公が恋人の前で努めて表に出すまいとしている葛藤の数々を物語っている。ざっと箇条書きにするとこのような感じだ。

1番(ジュリアン・ベイカー)
  • 相手のことをちゃんと嫌いになれるように、ひどい態度を取ってほしいと思っている
  • 相手なしでもやっていけると自分に言い聞かせながら、本当はそうではないことを知っている
  • にもかかわらず涼しい顔(cool about it)をしようとしている自分のことを愚かに感じている
2番(ルーシー・デイカス)
  • 向こうが許しを請いさえすれば寛大に許すつもりでいたのに、「後悔はない」と言われて腹を立てる
  • 相手が思い通りにならない人間だったことを思い出しつつも、なんとか自分の頭の中から出て行ってくれないかと願っている
  • いつか相手のことを忘れてしまうだろうと思いながら、そうはならないことを知っている
3番(フィービー・ブリジャーズ)
  • 相手が何を考えているか分かっているのに、知らない顔をして相手に嘘をつかせるような質問をする
  • 相手と一緒にいることは自分にとって「溺れるようなもの」だったのに、そうではないふりをしている
  • 「あなたが元気にやっていてよかった」と言いながら、お互いにそれが本当ではないことを知っている

主人公は自分とパートナーとのあいだでも、自分自身の中でも、うまく折り合いをつけられずにいる。関係の悪化とともに恋人と本音で話せなくなって、自分自身にも嘘をつこうとしている。ここで生じているのは、歌詞の内容は隅から隅までギクシャクしている一方、音楽は完璧に調和しているという、音楽と歌詞のあいだの意味的ギャップだ。これは厳密な意味でのサウンドの裂け目とは異なるものかもしれないが、歌はこのように音と言葉の関係を故意に破綻させることによって、音だけ、言葉だけでは表現できないものを表現することもできる。


直近で聴いたものの中でもこうして3曲挙がるのだから、音楽の世界はさまざまな種類の裂け目で満ちているのだろう。カノンやフーガなど、比較的大きな「ズレ」の感覚をもたらす音楽ははるか昔からあった。最近で言えば坂本龍一も中期以降のいくつかのアルバムの題名––––『DISCORD』(不協和)、『CHASM』(裂け目)、『out of noise』(ノイズの中から)、『async』(非同期)––––が示しているように、調和を失った音や、音と音のあいだの空間に関心を向けていた。しかし音楽におけるギャップを初めて主題として扱い、本格的に光を当てたのは、ミニマル音楽の草分けとして知られるアメリカの前衛音楽家、スティーヴ・ライヒではないか。

「Come Out」(1966)は当時まだ無名だったライヒが前年の「It’s Gonna Rain」に続いて制作した2番目の「フェーズ・ミュージック」作品で、2台のテープ・レコーダーを使って同じ音声を左右のスピーカーから繰り返し流しているが、ループの間隔がレコーダー間で微妙に異なっているため、2つの音の位相(フェーズ)が少しずつずれていく。その結果、1分過ぎではエコーがかかっているように、2分過ぎではディレイがかかっているように聴こえる。もっと外れてカノンみたいになりかけたところで音の数は4つに増え(2:59~)、それらもまた互いにずれていき、最終的には8つに分裂する(8:38~)。

完璧に一致していた音がゆっくりと裂けていくさまを実演する最初期の作品の1つとして、「Come Out」は音楽におけるギャップが表現しようとしているものについての基本的な何かを語っているように感じられる。そこで注目すべきはこの曲の音源、その淡々とした声は、いったい誰がどのような経緯で発したものなのかということだ。少しだけ歴史の話にお付き合いいただきたい。

ことの始まりは1964年4月17日、黒人が多く住むニューヨーク・ハーレム地区の路上で果物売りのカートがひっくり返り、子どもたちが地面に落ちたグレープフルーツを投げて遊ぶという他愛もない出来事だった。店主がそれを止めさせるために笛を吹いて警告すると、治安維持のため当時地域の各所に詰めていた警官隊が駆けつけて子どもたちを警棒で殴り、中には銃を取り出す者もいたため、その場にいた通行人らが警官と子どもたちのあいだに割って入る(多くの人が負傷し、ある男性は片目を失った)。その中の1人ダニエル・ハム(当時18歳)は、「彼らは事件には関わっていない」という果物売りの証言もむなしく、仲間とともに逮捕されてしまう。

連行後、彼はありもしない犯行の自白を強要する6人から12人ほどの警官たちから夜通し交代で殴られる。のちにレントゲン撮影が必要になるほどの怪我だったが、「出血がない」という理由で病院には連れて行ってもらえない。そこで彼は内出血を起こして腫れていた足に自ら手をかける。「Come Out」で使われているのは、事件から数日後、彼がその時の状況を地域の教会で語った際の言葉だ。

I had to, like, open the bruise up, and let some of the bruise blood come out to show them

傷口を開いて、傷口の血をいくらか出して彼らに見せなくてはならなかった

「リトル・フルーツ・スタンド暴動」として知られるこの一件から12日後、警察から目をつけられていた彼は、今度はまったく別の殺人事件の容疑者として再び逮捕されてしまう。同時に逮捕された他の5人の黒人青年も合わせて「ハーレム・シックス」と呼称された彼らは、肌の色と貧しさのためにろくな裁判も受けられないまま拘束され、翌年には終身刑を宣告される。それから少しして、彼らの再審へ向けた資金集めのために抗議演説やチャリティ・コンサートなどさまざまな活動を企画していたある人権活動家がハーレム・シックスとの面会記録を収めたテープをライヒに託す。

※ジョン・レノンとオノ・ヨーコものちに傍聴することになる出口の見えない裁判劇の中、逮捕された6人のうち4人が殺人罪よりも罪の軽い過失致死罪をあえて認めてしまうことで執行猶予付きで釈放される道を選んだのは事件から9年後の1973年、ダニエル・ハムが釈放されたのはその翌年、最後の1人は実に1991年まで服役することになる。真犯人は検察側の証人だった可能性が高いと言われている。

70時間に及ぶ長大な記録の中からライヒが選び出した5秒間の証言は、「Come Out」の冒頭で3度流れ、それからその最後の部分––––come out to show them––––が繰り返される。傷口を開いて、そこから出てくる血を見せること。この曲の中で、ダニエル・ハムの声は裂けていく。だがそこでは彼の現実の肉体も裂けているのだ。「Come Out」において、音の裂け目とは傷口のことである。自分で自分を傷つけるという痛ましい行為を選ぶほかなかった彼の声は、曲が進むにつれ少しずつ意味を運ぶことをやめていき、最後にはどこか化け物じみた、生々しく蠢く何かに貶められてしまう。ちょうど当時のアメリカ社会において多くの黒人たちの声が公共の場から掻き消され、彼らの人間としての尊厳が剥ぎ取られていったのと同じように。

だがそれと同時に、「ペルソナが拡散し、増殖し、分裂し始めるとき……この尋常ではない魔法をくぐり抜けている人間に対する非常に強い同一化(訳注:他人に自分を重ね合わせること)が起こる」とライヒ自身が語っている通り、「Come Out」の声には聴く者を射すくめ、その磁場の内に捕らえてしまう魔術的な求心力がある。トラウマというものは物理的な傷が癒えてからも長い時間にわたって当事者の心に痛みをもたらし、現場を目撃した人やその話を聞いただけの人にも痛みをもたらす(「二次受傷」と言う)ことがあるというが、「Come Out」もまた60年の時を越え、国境を越えて私たちの心に小さな傷口を開く。

しかしわざわざ自分を傷つけるようなリスニング体験にいったい何の意味があるというのか?

たぶんそこに意味などないのだろう。人は無意味に他人を傷つけることがあり、傷つけられた人の身体は無意味に裂けてしまう。現在も進行中のイスラエルとハマスの戦争の例を引くまでもない。そうした現実がある限り、人間によって作られる音楽もまた無意味に裂け、それを聴く人の心を無意味に裂き続けるだろう。ただ忘れてはならないのは、少なくともダニエル・ハムの自傷は自らを救うための行為だったということだ。「痛い」という言葉は他人に痛みを伝えない。だから彼は自分の身体を裂くことで、自分が訳のわからない怪物などではなく、血の通った人間であることを有無を言わせぬ仕方で伝えるしかなかった。そうすることによって彼は理不尽な状況を生き延びようとした。

傷つくことが避けられないとき、私たちは傷ついたら痛くて悲しいものだという当たり前の事実に慰めを見出し、痛くて悲しいのは誰だって嫌なはずだという共感の可能性に救いを見出し、これ以上の傷を避けるための立場を超えた連帯に希望を見出すほかない。裂けた音楽は自ら傷口を開き、象徴的な血を流すことで、そのことを伝えようとしているのではないだろうか。上掲の「2:30」でアシャケは自国ナイジェリアの音楽シーンを腐して「自分こそがナンバーワンだ」と誇りつつも、悪意に満ちた世界で好戦的な人々が仕掛けてくる争いごとは少しも求めていないこと、ただ楽しむために音楽をやっていることを強調する。「Nurse!」のサビでは傷を負った主人公が仮面をつけ、昔好きだった音楽に合わせて踊ることでほんのわずかな時間、心の自由を取り戻す。「Cool About It」は恋人とうまくいっていた頃の関係を思い出し、できることなら今も辿り着きたい理想の関係を夢見ながら、実際にはちぐはぐになってしまっている現状をただありのままに受け入れようとする。いずれも不和と苦しみの先に広がっているはずのより幸福な生の地平へ至ろうとする過程を描いた曲だ。無数の音楽的亀裂を網の目のように含むフリージャズが50年代後半から60年代にかけてのアメリカの公民権運動を背景に現れてきたことも偶然ではないだろう。

ライヒによって切り取られた「come out to show them」というフレーズは、単体では「表へ出て奴らに見せつけろ」という扇動の言葉にもなっている(その精神は2013年に始まったブラック・ライヴズ・マター運動で一挙に具現化した)。最近ではこのフレーズに性的マイノリティが社会においてより自分らしく暮らしていくために踏み切る「カミングアウト」を読み取る研究者もいる。傷ついた、穴の開いた身体で生きていくのは大変なことだ。だが傷口は血液が出ていくためだけのものではない。それは自分自身や他の誰かのために開かれる、「こうではなかったはずの世界」への入り口にもなり得るのだ。