再発見されるジョニ・ミッチェル–––「Little Green」から延びる長く曲がりくねった道

アメリカの公共ラジオ局NPRが2017年に作成した「女性が作った名盤150枚」のリストでアレサ・フランクリンやパティ・スミス、ビヨンセらの作品を差し置いて第1位、先月17年ぶりに大改訂されたローリング・ストーン誌による「史上最高のアルバム500枚」でマーヴィン・ゲイの『What’s Going On』とビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』に次いで第3位(つまりビートルズとボブ・ディランのどのアルバムよりも上)に選出されるなど、誰もが認めるポピュラー音楽史の金字塔『Blue』(1971、Reprise)。それだけの作品であるにもかかわらず、作り手であるジョニ・ミッチェルが収録曲の「Little Green」に託した思いは、1993年に予想外のかたちで公になるまで実に22年の長きにわたって聴衆の詮索を逃れていた。この曲の裏側に隠された、彼女のキャリア全体にとって決定的な意味を持つ事実について、誰一人突き詰めて考えてみようとはしなかったのである。

今となっては欧米では有名な話ではあるが、日本ではこのことについて詳細に扱った記事は意外と少ないようなので、可能な限り多くの英文資料を参考にまとめてみたいと思う。まず、下に引用した「Little Green」の歌詞を読んでみて、あなたはこれが何についての歌なのかわかるだろうか。


Born with the moon in Cancer
Choose her a name she will answer to
Call her green and the winters cannot fade her
Call her green for the children who've made her
Little green, be a gypsy dancer

かに座の月星座に生まれた女の子
その子に似つかわしい名前を選ぶ
グリーンと呼ぼう 冬の寒さに負けないように
グリーンと呼ぼう その子を作った子どもたちにちなんで
リトル・グリーン、ジプシーの踊り子におなりなさい

He went to California
Hearing that everything's warmer there
So you write him a letter and say, "Her eyes are blue"
He sends you a poem and she's lost to you
Little green, he's a non-conformer

あの人はカリフォルニアへ行ってしまった
そこでは何もかもが暖かいと聞いて
それであなたは彼に手紙を書く 「この子は青い目をしています」と
彼はあなたに詩を送ってきて その子はあなたの手から離れてしまう
リトル・グリーン、彼は何にも縛られない人だから

Just a little green
Like the color when the spring is born
There'll be crocuses to bring to school tomorrow
Just a little green
Like the nights when the Northern lights perform
There'll be icicles and birthday clothes
And sometimes there'll be sorrow

ほんの小さなグリーン
春が生まれるときの色みたいに
きっと次の日に学校へ持っていくクロッカスがあることでしょう
ほんの小さなグリーン
オーロラが踊る夜みたいに
きっとつららが、誕生日会の洋服が
そして時には悲しみがあることでしょう

Child with a child pretending
Weary of lies you are sending home
So you sign all the papers in the family name
You're sad and you're sorry but you're not ashamed
Little green, have a happy ending

子どもを持った子どもの偽り
実家に嘘をつき続けるのにもうんざりして
あなたは書類に名字でサインする
悲しくて申し訳ない気持ちだけど、恥ずかしくはない
リトル・グリーン、ハッピー・エンドを迎えなさい

ことの発端は1965年2月19日まで遡る。その日、21歳のロバータ・ジョーン・アンダーソンはトロントの慈善病院で女の子––––彼女の人生でただ1人の子どもとなる––––を出産し、「ケリー・デイル(Kelly Dale)」と命名する。ファースト・ネームは「ケリー・グリーン」という緑色の種類から取った。青と黄色のちょうど中間に位置する真緑で、ジョーンの母方の祖先が住んでいた国、アイルランドの豊かな大地を象徴する色だ。緑色はまた英語圏では若さや未熟さを表す色でもあり(青春、青年、青二才などと言うときの日本語の「青」に相当する)、思いがけずこの世に子どもを送り出すことになってしまった幼い親たちのことも暗に示している(「グリーンと呼ぼう その子を作った子どもたちにちなんで」)。ミドル・ネームの「デイル」は谷、特に北部イングランドの緩やかな谷を意味する。緑なす谷、美しい名前だ。

しかし、ジョーンには自分の両親にその赤ん坊の存在を知らせるつもりはない。それどころか彼女はすでに画家として身を立てるために通っていたカルガリーのアートスクールを「フォークシンガーになる」という口実で辞め、ボーイフレンドでもあり娘の父親でもある芸術家志望の学生ブラッド・マクマスとともに2,700キロ離れたトロントまで逃げるようにして出てきてしまっていた。当時のカナダで若い女性が未婚のまま子どもを産むことについて、30年以上経った1997年、彼女はロサンジェルス・タイムズにこう語っている。「そのときはとにかく隠さなくてはと思った。それはあまりにひどいスキャンダルだったから。娘としてそれ以上に恥ずべきことはなかった。社会的には破滅も同然だった。その烙印がどれほどのものだったか今の人にはわからないでしょうね。殺人犯みたいな感じだったんだから」。学校では「女性は生理直後の性交では妊娠しない」という誤った知識を教え込まれ、マクマスと出会うまで処女だった彼女は、中絶などというものの存在を聞いたことすらなかった(中絶はカナダでは1969年まで違法)。

追い討ちをかけるように、妊娠3か月のときにはマクマスが彼女のもとから去ってしまった。彼女はその冬、金のない若者たちが住む下宿屋で大きなお腹を抱えたまま、この時期の平均気温が0度に届かないトロントで極度の寒さに震えながら過ごした。階段の手すりの支柱は歯抜けの状態になっていた。過去の住人が暖を取るために外して燃やしてしまったのだ。カルガリーにいたとき、彼女はコーヒーハウスで週15ドルもらって歌っていて、ローカルのテレビやラジオに出演したこともあった。しかしトロントで表立って活動するためにはまず音楽家の組合に200ドルを納めなくてはならない。権利者への支払いなしには得意のトラディショナル・ソングを歌うことも許されない。まだ自分の曲を作り始めて間もない彼女は、デパートの洋服売り場で売り子をして家賃をまかないながら、教会の地下や路上で非公式に演奏するほかなかった。それは「赤貧(dirt poor)」としか言いようのない生活だった。

インタビューなどでは語ってはいないが、ほとほと困り果てた彼女は出産後、カリフォルニアにいるらしいマクマスに手紙を書いたのかもしれない。児童保護施設に預けた娘の様子を伝えて父親としての情と自覚を呼び覚まし、最低限の金銭的な援助を、あるいは将来のまともな生活を約束してもらえることを期待して。しかしまだ自分自身への酔いが抜けていないグリーンなボーイフレンドは何の足しにもならない詩を書いて寄こしたのかもしれない。それを読んだとき、彼女は自分にはこの子どもを育て続けるのは不可能なのだという確信を抱くようになったのかもしれない(「彼はあなたに詩を送ってきて その子はあなたの手から離れてしまう」)。

娘が生まれて2か月、彼女はアメリカ人フォークシンガー、チャック・ミッチェルと出会い、彼の誘いに応じて初めてアメリカに行き、一緒に何度かライブを行う。施設に預けた子どもがいることについて彼女が話すと、「結婚しよう」と彼は言う。心の弱っていた彼女はそのプロポーズを受けることにするが、後から振り返れば、せいぜいが「便宜のための結婚(marriage of convenience)」だった。結婚さえすれば生活が成り立ち、子どもと一緒に暮らしていけると思ったのだ。しかし1か月も経つと夫は別の男の子どもを育てていくという状況におじけづく。彼女自身もおじけづく。赤ん坊に家を与えるという目的のほか、その結婚には基盤というものがなかった。「時期が遅くなればなるほど、子どものもらい手は現れにくくなる」と、児童援助団体からもプレッシャーを受けていた。

彼女は生後6か月の娘を養子に出すことに決める。娘にとっても、自分にとっても、物事が悪い方向に運ばないような状況を作ろうと何度も試みてきた。でも不幸な母親からは幸せな子どもは育たない、彼女は最終的にそう思った。これはギャンブルなのだ。すでにわかりきっているものより、カーテンの向こう側にあるものを取る。この子どもを譲り受けようと申し出てくる人たちはこの子が欲しくてたまらず、彼らの生活にはこの子でなくては埋めることのできない穴があるはずなのだ。「当時の書類には事情の聴き取りのときに私が感情的になったって書いてあるけど、きっとそうだったんでしょうね」と彼女はロサンジェルス・タイムズの同じインタビューで話している。「ここに書かれていることは何ひとつ憶えていないの。全部蓋をしてしまったのね」

そのようにして彼女は娘を失う(「あなたは書類に名字でサインする」)。サンデー・タイムズの2015年の記事によれば、彼女にソングライターとして生まれて初めてインスピレーションが降りてきたのはこの時期だったという。一番話したい相手と話すことができなくなってしまった今、私は全世界に対してチューニングを合わせるしかない、そう彼女は感じる。

娘を養子に出した翌年の1966年、彼女は「Little Green」という曲を書く。小さなグリーンが放浪生活を送るジプシーの踊り子のように自由で心配事のない人生を送るよう、最後には幸せな結末を迎えるよう、密かな、しかし満身の願いを込めて。いろんな経験をしながら成長していく娘の姿が彼女の目に浮かぶ。彼女自身の少女時代と同じように、娘もまた春を告げる花クロッカスを持ち寄ることで長い冬の終わりを喜ぶカナダの学校行事を体験することだろう。オーロラの出る寒い夜には軒から下がるつららの透明な鋭さを目にし、誕生日には幸福な養母にカラフルな衣装を作ってもらえることだろう。そして時には悲しみに包まれることもあるだろう。それは人間として、女性として、生きていく上で避けられない宿命のようなものだ。そのことを彼女は嫌というほど知っている。娘がそんな悲しみを感じるとわかっていながらそばにいてやれないこと、それ自体が彼女の最大の悲しみなのだ。しかし彼女はその声にならない叫びを春先の雪融け水のように清らかなギター・ピッキングとヴォーカルのデリヴァリー(唱法)によって丁寧に塗り込める。

彼女には1つだけ間違っていたことがあった。それはギャンブルなのは娘を養子に出すことだけでなく、彼女自身の人生もそうだということだ。1968年にデビュー・アルバムをリリースして活動が軌道に乗り始めると、彼女は驚異的な速さで自らの音楽を見出していく。9歳のときに患ったポリオのせいで左手は思うように動かなかったが、それをカバーするために編み出した数々の変則チューニングからは心の襞に触れるような繊細なコード進行が生まれた。1970年にはベスト・フォーク・パフォーマンス部門でグラミー賞を受賞。その年リリースしたアルバム『Ladies of the Canyon』はミリオン・セラーになる。だが彼女の気分はすぐれなかった。何を見ても涙が流れて、人と一緒にいることができなかった。音楽フェスティバルで小さな女の子を連れたファンに話しかけられた後には、「あれは私の娘かもしれない」と親しいミュージシャン仲間の前でつぶやくこともあった。結局彼女は自分の娘が他の誰かの娘になるという事実を本当には受け入れられなかったのかもしれない。「ジプシーの踊り子におなりなさい」という「Little Green」の歌詞には、娘に幸せになってもらいたいのと同時に、自分以外のどんな人間にも属してほしくないという願望も込められているように見える。

1971年、「世界に対してもう何の秘密もないような気がして、強がったり幸せなふりをしたりすることもできなかった」と感じていた時期に、彼女はそれまでライブで演奏するのみだった「Little Green」をニュー・アルバム『Blue』に収める。その頃は娘の健康が気がかりでしょうがなかった。タバコは9歳のときから吸っていたし、妊娠中の食生活もぞっとするようなものだったからだ。娘の行方について何度も調べてみたことはあったが、トロントのあるオンタリオ州の法律は養子先に関して厳格な守秘義務を課しており、その試みが成功することはなかった。夫とは1967年に離婚し、自分の愛称「ジョニ」と、夫の名字「ミッチェル」の組み合わせだけが残っていた。


それで終わるはずの話だった。ところが、この話には後日談と呼ぶにはあまりに大きな続きが、運命の変転とでも言うべき出来事がついてくる。


トロント郊外の町ドンミルズで愛情豊かな教師夫婦に育てられ、国際的なモデルとしてファッションショーのみならず雑誌の表紙や街頭広告、ロックバンドのMVなどにも出ていたキロレン・ギブ(Kilauren Gibb)は1992年、妊娠中の27歳のときに両親から自分が養子であることを告げられる。その遅すぎる告白に彼女は激しく動揺する。以前から違和感を覚えることはあった。見た目も気質も、両親とはあまり似ていなかったからだ。11歳のときにはタバコを吸い始め、どこか遠くへ旅に出たいという衝動に駆られることがよくあった。教育熱心な親から学問と運動のための恵まれた環境を与えられていたが(あと少しで水泳のオリンピック・チームに入れるところだった)、本当に興味を引かれるのは芸術だった。16歳でプロのモデルになると伝えたときには強い反対を受けたが、一度こうと決めたら絶対に枉げない頑固なところのある彼女は自らの希望を押し通した。

自分の生物学的な親が誰なのか、自分が誰なのか、知りたかった。児童援助団体に両親に関する情報の開示を求めると、少し時間がかかるので順番待ち名簿に載せておくという。それから5年後の1997年1月、ようやく書類が届く。しかし日付関係のデータや身長、母親には音楽的才能があり、サスカチュワン州出身でアメリカに渡っていることなど、演劇の設定のように断片的な記述ばかりで、両親を見つけ出すには明らかに情報が不足していた。

しかしある日、地元の男友達が連れてきた恋人に何気なくその顛末について話していると、「あなたの母親はひょっとしてジョニ・ミッチェルなのではないか」と驚いたように言う。その女性は大学時代、60年代にジョニ・ミッチェルと同じ下宿屋に住んでいたという詩人と知り合い、ミッチェルに隠し子がいることを内緒話として聞かされていたのだ。ギブは詩人に直接会いに行って話を聞いてみたが、この突如として浮上してきた可能性を本気にすることはなかなかできなかった。二十世紀後半の女性ミュージシャンで最も影響力があるとされる人物が実の母親かもしれないと言われて、素直に信じられる人間がどれだけいるだろう?

彼女が当時まだ普及し始めたばかりのインターネットを使ってみると、とあるファンサイトがジョニ・ミッチェルの養子探しについて詳報していた。それによれば、カルガリーのアートスクール時代のルームメイトが「ジョニ・ミッチェルには私生児がいる」という暴露話を1993年にタブロイド雑誌に売り、ミッチェルの古い悲しみは––––「Little Green」の歌詞の意味は––––一部世間の知るところとなっていた。さらにそのサイトに載せられていたミッチェルの生い立ちは、彼女が持っている書類の情報と完全に一致していた。彼女はすぐにサイトの運営者と連絡を取り、ミッチェルのマネージャーの事務所に取り次いでもらう。すでに多くの人々から同様の電話を受けていた事務所は初め彼女の言うことに取り合わなかったが、彼女が書類を送ると––––そこには彼女の元の名前が「ケリー・デイル」であることも記されていた––––事態は急速に進展し、マネージャーはミッチェルの住むロサンジェルスへのファーストクラスの航空券を送ってきた。

32年ぶりの「再会」に際して、ギブは4歳の息子マーリンも同行させた。つまりジョニ・ミッチェルは娘と孫に同時に出会ったことになる。「痛みも喜びもある人生だったけど、こんなのは初めてだった」と53歳になっていたミッチェルは当時レポーターに話している。「他に比べるもののない、ものすごい感情だった」。一目見て親子とわかるブロンドの髪、青い瞳と高い頬骨の他にも、ミッチェルとギブには共通点がいくつもあった。ミュージシャンと結婚し、離婚していたこと(ミッチェルは2度、ギブはマーリンの父親と1度)。80年代には同じ時期にニューヨークに住んでいて、同じナイトクラブに通っていたこと。2人ともポケット・ビリヤードが好きだったこと。ミッチェルは65年にチャック・ミッチェルと結婚して以来やりとりが途絶えていたブラッド・マクマス(トロントで写真家になっていた)にも連絡を取った。会う前は互いに緊張していたが、いざ顔を合わせてみると彼らは久しぶりの邂逅に目を輝かせ、娘から見た両親の姿は「まるで学生時代に戻ったよう」だったという。

まさに「Little Green」で歌われている通りのハッピー・エンドに見えたが、人生はおとぎ話とは違ってちょうどいいところで「おしまい」というわけにはいかないものである。欧米のあらゆるメディアが報じたと言ってもいいほどの大ニュースになったこの奇跡的な出来事を経て、ギブはミッチェルに娘を取られてしまうことを恐れた養父母や兄(養父母の実の息子)と一時的に疎遠になったり、ミッチェルと会いに頻繁にロサンジェルスへ出かけたために恋人との関係が破綻したり、彼女のことを成り上がったように思った周囲の人々が突然態度を変えたり、ストレスのために倒れて病院に救急搬送されたりしたという。周りだけでなく、彼女自身の中でも変化を余儀なくされる部分はあったのだろう。ミッチェルはギブの振舞いが横暴だと感じて不満を募らせ、2000年にはギブが口論の際にミッチェルから顔を打たれたと訴えて警察が呼ばれる騒ぎになっている。2001年頃には決別し、本格的な和解に至るまで10年以上の時間を要したとも伝えられている。2007年のアルバム『Shine』は孫が放った一言に影響を受けているとミッチェルは語っているが、それは孫が「家族の喧嘩」を聞いていたときに発したものだという。

これが現実というものなのだろう。再会したからといって、失われた時間が戻ってくるわけではない。ギブは母親に見捨てられたという感覚と、ミッチェルは我が子を手放したときの「悲しくて申し訳ない気持ち」と、改めて時間をかけて折り合いをつけていく必要があったはずだ。そこには母子関係をもう一度ゼロから作り上げていくような作業が伴っただろうし、ギブがすでに一人前の大人になってしまっている以上、それは容易いことではなかっただろう。自分のことを養子に出した母親の決断を受け入れられたのか、というトロント・グローブ・アンド・メール紙の質問に対して、ギブは再会の翌年の1998年にこう答えている。「それは問題ね。難しい問題。そこに踏み込んでいくのは大変だから。彼女(ミッチェル)はそのことに対して本当は罪悪感を持っていると思う」

しかしこの話の問題点は本当にそこなのだろうか。ジョニ・ミッチェルに罪悪感があるとして、彼女が犯した罪とは何だったのだろうか。彼女が子どもを手放すより先に、どこかで何か大切なものが手放されてはいなかっただろうか。「子どもを持つのにいい時期なんて一度もなかったように思える」とミッチェルは1997年にロサンジェルス・タイムズに話している。「それが難しい理由の一つは、子どもを欲しがる男性が全然いなかったということ。あの世代にとってはかなり無責任な時代だったから。ピーターパン症候群が蔓延していたの」

さらに時を経た2013年、ミッチェルがトロント・スター紙のインタビューに対して次のようなことを事もなげに話すとき、私たちはそれを彼女がメディアからしばしば非難されてきた「傲慢さ」によるものだと言うことができるだろうか。「自分の古い録音を聴いていると、あまり好きじゃない部分も出てくるし、こうじゃなかったらなと思うこともある……でも人生についてはどうか? いいえ、私は何も変えたいとは思わない。全部こうなるべくしてなったんだという確信を持っているわ」


冒頭でローリング・ストーンのリストについて触れたが、その2003年版では『Blue』は30位だった(それでも女性アーティストの作品では最高位)。それが17年のあいだに27も順位を上げたのは、ポピュラー音楽史における女性の声の重要性が近年大きく見直されているからだろう。特に#MeToo以降、ポピュラー音楽とクラシック音楽とを問わず、性暴力やセクハラやパワハラの告発、その結果としてのバンド脱退や活動休止や地位の剥奪に関するニュースを耳にしない月はない。他の業界と比べても男性中心的な価値観が根強いと言われる欧米の音楽業界において、女性アーティストたちが男性によって作られる「正史」からいかに弾かれやすいかということ、彼女たちがどれほどのリスクとハンディキャップを負わされながら活動しているのかということが徐々に明らかになってきている。

男性のロック・スターたちは、人に子どもを産ませることはあっても、自分が産むという状況にはなり得ようもなかった。その意味では、若くして子どもを産み、その子どもを失い、最初の夫の姓で活動を続けてきたジョニ・ミッチェルは、存在そのものが伝統的なロック的価値観に対する一つのアンチテーゼになっているようにも見える。ローリング・ストーンのリストに投票したアーティストやジャーナリストや業界関係者たち(そこにはビヨンセやテイラー・スウィフト、ビリー・アイリッシュなど現在のアメリカ音楽を代表する女性たちも含まれている)が評価したのは、もはや無視できないほどに表面化してきたこの問題に対するパイオニアとしての彼女の側面なのではないか。ジョニ・ミッチェル自身、ポップ・ミュージックの世界における慣行や自分の音楽が正当に評価されていないことに対する苛立ちを常に隠さなかったが、その根本には女性であるがゆえに受けることになった最初にして最大の痛みがあったのかもしれない。「Little Green」は、そしてそこから始まった彼女のディスコグラフィは、強権的な力が支配する場において「自分の心で感じる」ということを忘れずに生きたいと願うすべての人にとって、貴重な羅針盤となり続けるだろう。