見えないコミュニケーション–––Plush『More You Becomes You』

プラッシュの『More You Becomes You』(Drag City, 1998)を初めて聴いたのはもう10年ほど前のことになるが、全体を通して聴き終えたときに、「これはとても特別なアルバムだ」と感じたことはよく憶えている。ほぼピアノと歌だけの切り詰められた構成。ホーム・レコーディングのような親密さ。30分足らずの全編を薄く、しかし拭いがたく覆っている憂鬱とも気だるげとも言えそうな雰囲気。こうした一見ありそうな要素の組み合わせは、だが他のアーティストの作品ではあまり耳にしたことのないものだった。

とはいえ、それだけで一枚のレコードが特別になるわけではない。あまり聴いたことのないものというのはあくまであまり聴いたことのないものであって、特別さとは基本的に無関係である。『More You Becomes You』の何が特別なのかについて説明するのは10年経った今でも難しい。ひとまず主観的に言うなら、それはこのアルバムを聴くと、自分の中の何かが不思議なほど癒されるように感じるということだ。「癒す」という言葉ほど野暮な言葉もないが、それ以外の言葉でこの感覚を形容するのはなかなか容易ではない。

一方で、この作品には比較的明らかな一つの特徴がある。それは収録曲のあいだの区別がつきにくいということだ。1曲目の「Virginia」とそれに続くタイトル曲、「The Party I」と「The Party II」と「Soaring and Boring」のように物理的に曲が分かれていない場合もあるが、それ以上に、曲同士が互いに似通っていて、ちょっと注意して聴いていないとすぐにそれらのイメージが頭の中で団子のように1つにくっついてしまうのである。いや、もっと正確に言えば、何度も聴いていれば曲の造作的な違いはわかってくるのだが、それぞれの曲が訴えていることの区別がつかないのだ。全部の曲が同じこと––––それが何なのかについてはさておき––––について語っているように聞こえる。

洋の東西、メジャーとインディーとを問わず、1枚のアルバムの収録曲にはある程度の多様性を持たせるべきだという考え方は、音楽界で広く共有されていると言えるのではないか。それは作品に奥行きを与えるためでもあるだろうし、作り手の実力を表現するためでもあるだろうし、リスナーを飽きさせないためでもあるだろう。その反面、アルバムが持つ品揃えの豊かさは時に私たちを疲れさせる。曲ごとに音色が違いすぎることによって。一つのフィーリングから別のフィーリングへとひっきりなしに動かされることによって。全体としてのフォーカスが散漫になることによって。アルバムがひとまとまりの作品として発表される以上、そこには多様性とともに一貫性というものが必要になってくる。どの程度つながりを重視して、どの程度ばらけさせるのか––––作曲やアレンジメントのプロセスはもちろんのこと、曲順や曲の採用・不採用に関する判断も含め、芸術的な統合性やバランス感覚のようなものが制作者の側には問われることになる。

その意味でプラッシュことシカゴ生まれのリアム・ヘイズによる『More You Becomes You』はかなり特異な作品だ。瞑想に沈み込むようなスローなテンポ。ファルセットとダブル・トラッキングを多用した恍惚としたヴォーカル。キャッチーだがカタルシスのないメロディー。いくつもの想念が混じり合う中間色的なコード進行。アルバムの冒頭でヘイズがエンジニアに「ああ、これでいいよ(Ah, that helps)」と声をかけてから最後にピアノの前を立ち去るまで(実際にその音が録音されている)、それはほとんど変わらない。1曲目が気に入った人はきっとアルバム全体を好きになるだろうし、そこでピンとこない人は最後まで退屈に感じる可能性が高いだろう。どちらの場合でも、ぼんやりと聴いていると、アルバムは三十を過ぎてからの一年のように一足飛びに終わってしまう。執拗なまでの一貫性の高さである。

別の言い方をすれば、ヘイズは聴き手に何ひとつ要求しない。曲に合わせて心持ちを調整する必要もなければ、彼が何を歌おうとしているのかについて考えてみる必要もない。耳を傾ける必要さえない。必要がないというか、聴いていてもそういう気持ちがあまり起こってこないのだ。人々の会話や通りからの喧噪で低くざわめくホテルのバーラウンジで歌われる歌のように、『More You Becomes You』はあらかじめ聴き流せるように作られている。

ニルヴァーナやピクシーズとの仕事で知られるスティーヴ・アルビニがエンジニアとして携わっているという事実が信じられないほど、このアルバムからは世間からも音楽業界からも遠くかけ離れた印象を受ける。淡々と刻まれるピアノの和音に乗ったどこか懐かしいメロディーはバカラック・サウンドに象徴される60~70年代のレトロポップを思わせるし、事実デストロイヤーのダン・ベイハーはこの作品をハリー・ニルソンの『Nilsson Sings Newman』(1970)と比較してもいる。演奏スタイルという意味ではグルーパーの『Ruins』(2014)やトバイアス・ジェソJr.の『Goon』(2015)と似ていなくもない。どれも見事な作品だが、『Nilsson Sings Newman』はタイトルが示す通り2人のアーティストのコラボレーション作品だ(ピアノもランディ・ニューマンが弾いている)。そこには風通しのよいコミュニケーションがある。『Ruins』はその孤絶感が逆説的に聴き手に対して関わり合いを強く求めてくる。『Goon』にはメインストリームで成功してやろうという野心が充ち満ちている。だが『More You Becomes You』でのリアム・ヘイズは––––本人の意図はともかく––––誰かと関わりたいとは全然思っていないみたいに見える。タイトル曲で彼は次のように歌っている。

 If you ain't got no one in this whole world
Then you gotta be your own best friend

もしこの世界のどこにも頼りにできる人がいないなら
君自身が自分の最高の友達になってあげなくちゃ

語弊を恐れずに言えば、このような引きこもり的・自己完結的な心の在り方がこのアルバムがあまり売れなかった理由なのかもしれない。すべてを自分の中だけで処理し、周りには何も求めない人間と手ごたえのある関係を築くのは困難なことである。しかし誰の人生にもそのような状況に陥ってしまうことが避けられない場合が現実にあって、そのような状況でしか到達することのできない精神状態––––自分で自分を笑ってしまうほどリラックスし、自分で自分を笑ってしまっても曲が成立するほど集中した、ほとんど無意識的なまでに純粋に内面に目を向けた状態––––もまた存在する。そしてアーティストというのは売れる売れないにかかわらず、やむにやまれず自己表現を行う人々である。

そんな状況にある彼の音楽はあたかもその場で思いつくままに演奏されているのかと思われるほどに自然だ。極端な言い方をすれば、それらは「誰かの手によって作られた曲」とは思えない。特に理由もなく存在していて、これからもなんとなくあり続けるような感じというのだろうか、それはまるで音楽が生まれる瞬間のシミュレーションを見続けているような感覚である。音楽が人の心を表現するものだと言えるなら、心が音楽に姿を変える、そのぎりぎりの境界線を––––心の輪郭を––––あぶり出すような。

ひょっとしたらそこで浮かび上がってくるのは目にするのも憚られるほどの絶対的な孤独なのかもしれない。でも私たちが今それを見る必要はない。そのことを彼も知っているし、私たちも知っている。そういうことは結局それぞれの人間が自分で引き受けていくしかないものだ。「I didn’t know her life was so sad, I cried(彼女の人生がそんなに寂しいものだなんて知らなくて泣いた)」というアルバム最初の歌詞が示すように、誰も他人のことなんて本当にはわからない。でもその事実を悲しむことはできる。『More You Becomes You』に何らかのコミュニケーションが含まれているとしたら、それはそのような種類のものだ。

私がこのアルバムを聴いて癒されるのは、ヘイズがそのような根本的な悲しみを抱えていながら、しかもそれを大袈裟にぶちまけてしまうことなく、「お洒落」とさえ言えてしまえそうなほどのさらりとした音楽に仕立て上げることのできる手腕と、それを裏づける成熟した自我(行儀の良さ)に対する安心感からなのだと思う。まさにこうした特長によって『More You Becomes You』は柄の小さな作品になってしまってもいる。多様性を欠いているというのは要するにそういうことだ。でも人の心には、小さな作品だけが入り込むことのできる隙間のようなものがあるのではないか。小さな作品だけが、私たちのささやかな日常に違和感なく寄り添うことができるのではないか。

プラッシュはこのデビュー・アルバムをリリースした後、打って変わってゴージャスなオーケストレーションを施した2ndアルバム『Fed』を2002年にリリースする。その後もロマン・コッポラの映画のサウンドトラックを担当したり、元ガールズのクリストファー・オーウェンズとツアーをしたりしながら地道に新作を発表し続けている。2008年のシングル「Take A Chance」も一聴に値する佳曲だ。