なくしたものが行き着くところ–––Maia Hirasawa『Though, I’m Just Me』

これまでたくさんの曲がCMなどでのタイアップのために提供されているので、日本では多くの人がマイア・ヒラサワの歌声を一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。たとえ名前を知らなかったとしても、を聴けば思い出す可能性はわりとありそうな気がする。彼女の歌にはあらゆる生き物の体内でひっそりと湧き出しているエネルギーの泉をじかに汲み上げてくるような、方向性は違えどビョークにも似たバイタリティがあって、それが耳に残る、はっきりとした個性になっているから。本来はどんな音楽性にも応用が効きそうなその個性が一時期スポンサー各社の要請に応えるようにして「周りまで笑顔にしてしまう元気いっぱいな女性」みたいなわかりやすいイメージに単純化され、個人的には食傷気味になってしまったこともあったのだが、それでも彼女の1stアルバム『Though, I’m Just Me』(2007, Razzia Records)は私の中でいつも特別な場所を占めてきた。

ただAmazonでのレビュー数などを見てみると、2011年に日本で本格的にアルバム・デビューして以降の彼女の作品が比較的よく聴かれているのに対して、本国スウェーデンで最もヒットした『Though, I’m Just Me』は日本ではあまり顧みられていないようだ。これに勝るとも劣らない出来の2ndアルバム『GBG vs STHLM』(2009)の収録曲が日本限定盤『Maia Hirasawa』(2011)やコンピレーション盤『The Japan Collection』(2014)に再録されたり、各種のサブスクリプション・サービスでも取り扱われたりしていることを考えると、『Though, I’m Just Me』が今のところYouTube等にアップされている一部の曲を除いてCDを購入しない限りは聴くことができないというのは、奇妙でもありまた残念な状況でもある(アメリカのSpotifyやApple Musicでは聴けるようなので、日本のレーベルの事情なのかもしれない)。

音楽に限らず、本や映画やアートなどに日常的に触れる習慣のある人なら、ときおり「生活の中で寄りかかることのできる作品」と出くわすことがあるのではないだろうか。いわゆる「本物の芸術作品」みたいなものとは違って、受け取る側に高い集中力や深い関わり合いを要求することがなく、よくできた服や食器や家具のように、一定の芸術性を持ちながらも日常の空間にしっくりと馴染み、日々背中を押してくれる作品。単純に波長が合ったというのもあるのだろうが、初めて聴いた頃(2009年のことだ)の私にとって、『Though, I’m Just Me』はまさにそんな存在だった。しばらくは周りの景色が少しだけ鮮やかに見えるような、空気が何かの予感を孕んでいるのを感じるような、普段よりも何段階か幸せな時間を過ごすことができたのを憶えている。

そのような作品が芸術として本物ではないと言いたいわけではない。20世紀最高のアルバムの1枚と比べるのもどうかとは思うが、私には『Though, I’m Just Me』はいくつかの点でジョニ・ミッチェルの『Blue』(1971)と通じるものさえあるように感じられる。優れた短編小説集のように、個々の曲が確立した文体(歌詞の語り口と演奏スタイル)を持っていること。「誰とも分かち合うことのできないやり場のない思い」という、他人の日記を覗き込むようにごくプライベートなテーマがその全体を束ねていること。収録曲の一部が共通の題材––––今は離れてしまった場所に対する思慕の情(『Blue』では「California」、『Though, I’m Just Me』では「Gothenburg」)、パートナーが家を出ていき、小さな子どもとともに取り残される女性(「Little Green」と「Roselin」)、インスピレーションの源でもあり気が鬱ぐ原因にもなっている自分の中の孤独な人格(「Blue」と「My New Friend」)––––を扱っていること。奇しくもどちらの作品もギターとピアノを始めとした複数の楽器を演奏する女性マルチ奏者によって27歳のときにリリースされている。

『Blue』は詩人が自分だけのために作ったようなどこまでもシリアスなフォーク・アルバムであり、『Though, I’m Just Me』は聴き手に対する意識の強い、基本的には楽しく愛らしいポップ・アルバムであるというジャンル上の違いは大きい。アルバムのジャケットも本人の顔のクロースアップというところは同じだが、『Blue』の色味がその名の通り深いブルーであるのに対して、『Though, I’m Just Me』は明るいピンクである。作品全体から受ける印象はこの上なく異なっている。しかし細部に目を向けてみれば、彼女たちの歌はどれも、私たちが人生の過程において何らかの理由で、あるいは特に何の理由もなく、切り捨て、置き忘れ、見失ってしまうことの多い、一見何の役にも立たなさそうなものについて歌っているように聴こえる。

それは例えば「自他に対する思いやり」だとか、「毎日を新しい一日として生きること」だとか、「楽しいことを楽しく、悲しいことを悲しく感じる心」だとか、言葉にすれば陳腐なものなのだとは思うのだが、それ以上に貴重なものが果たして他にあっただろうかと足を止めて考えさせる力がこれらの作品にはある。彼女たちが人間らしさを失わないように注意深く、万事問題なくやってきたからではないだろう。むしろ自分が多くを失ってしまったことを自覚しているからこそ、彼女たちはそれがどんなに悲しいことなのかを身にしみて知っているのだ。『Though, I’m Just Me』の中でも最もパーソナルな曲「Parking Lot」(ジョニ・ミッチェルの「Big Yellow Taxi」の有名な出だし「They paved paradise and put up a parking lot(彼らは楽園を舗装して駐車場を作った)」を思い出させる)で、マイア・ヒラサワは自分が歌を歌う理由についてこう歌っている。

Though we had it all, I left it all behind
The pictures on the wall, says where I should stand
Skylark had it all, but we left it all behind
Wanted to fly and not to fall
Now I don’t know where I should stand
And I sing
 
私たちはすべてを持っていたけど、それを私は全部捨ててきた
壁の写真は私の立つべき場所を伝えてくる
ヒバリはすべてを持っていたけど、それを私たちは全部捨ててきた
飛びたかった、落ちたくなかった
今はどこに立てばいいのかわからない
だから私は歌う

初めの2行で歌われているのは家族か恋人か、彼女が過去に属していた場所のことだろう。その次の2行は誰もが無邪気な青春時代(skylarkには「ヒバリ」の他に「ふざけ合い」や「悪気のないいたずら」の意味がある)を去らなくてはならないことについて語っているように聴こえる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」という室生犀星の有名な詩句の通り、この有為転変の世の中で何かが時間の流れに運び去られてしまったとき、私たちにできるのは「うたふ」ことくらいしかない。たとえそうすることによってできるのが過去を過去として鎮まらせ、過去に囚われた自分を現在に連れ戻すことだけだとしても。

時代を画す名盤のことをよく「記念碑的作品」と呼んだりするが、20代後半という、ミュージシャンとして、女性として、人間として、これから現実にしっかりと足をつけて生きていこうとする上で最も微妙な(それゆえ危機的な)局面において、マイア・ヒラサワはこれまで失ったものとその代わりに見えるようになった美しいもののすべてを記録した、いつまでも変わることのない、文字通りの意味での「記念碑」的な作品を自分のために作っておく必要があったのではないか。それがあって初めて大きな決断をしたり、きちんと年を重ねたりすることができるようになるような、「自分にとって『生きる』とはどういうことなのか」という問いに対する暫定的な結論を出しておく必要があったのではないか。

フランク・キャプラの古典映画『素晴らしき哉、人生!』の主人公のように、そのような結論に至ろうとするとき、人はいったん死に限りなく接近することになるのかもしれない。濃密な死の気配が漂う「Still June」や「Star Again」から、溢れんばかりの生命力を誇る「And I Found This Boy」や「Crackers」まで、極端なまでの生死の振り幅を備えた『Though, I’m Just Me』には、どこか死んだ人間の目からこの世界を覗き込んでいるようなところがある。そうとでも考えなければ、マイア・ヒラサワの描く生の世界があまりにも鮮やかすぎることの説明がつかないように思うのだ。

「どこに立てばいいのかわからない」(この歌詞はジョニ・ミッチェルの初期の曲のタイトルを意識しているようにも見える)と嘆くマイア・ヒラサワの「どこでもなさ(nowhereness)」は、彼女が日系のスウェーデン人であり、しかも英語で歌っているということとも関係があるのかもしれない。しかしそれはまたビートルズがそのキャリアで初めて作った恋愛とは無関係の曲が「Nowhere Man」だったこと、マイケル・ジャクソンが自宅に「ネヴァーランド」という架空の土地の名前をつけたこと、星野源や米津玄師、アイドルグループのメンバーたちなど、現代のJ-POPの担い手にいじめや不登校など逆境的状況の体験者が多いことなどとも時空を超えて響き合う。居場所のない心から生まれ、居場所のない心を満たしてきた無数のポップ・ソングたち。それは特定の空間を持たない、「どこでもない場所」にすぎない。しかしそこにはあらゆるものが当時の姿のまま保存されていて、今この場所で十全に生きるということがどんな気持ちのするものなのかを私たちに教えてくれる。