ビートルズやオアシスは明るく、ニルヴァーナやレディオヘッドは暗い。中学から高校にかけて、私は自分の身の回りにある音楽をそんなふうに明るいものと暗いものに分けることができると信じていたような気がする。アーティスト単位で分類してしまうのはやや乱暴だとしても、曲単位でなら可能だと思っていただろう。何が明るく、何が暗いのかということは、きっと当時の私にとって重要な指標だったのだ。自分の内外で起こる急激な変化にうまくついていけない他のたくさんの年頃の子どもたちと同じように、私の思春期もまた光と闇がはっきりと分かれた時期だった。
その頃と比べれば激しく浮かれたり落ち込んだりすることの少なくなった今は、世の中に存在する曲のほとんどは明るさと暗さの入り混じった曲か、特に明るくも暗くもない曲であることを知っている。オアシスには彼らだけが抉り出すことのできる社会の暗部があり、ニルヴァーナには彼らだけが人の心に投じることのできる明かりが(たぶん)ある。そもそも明るさや暗さが音楽にとってどれだけ本質的なことなのかも怪しいところだ。「明るい」とか「暗い」という言葉はそれこそ中高生がクラスメイトの性格を誰かに説明するときに使うようなごく便宜的なものであって、便宜的なものがしばしばそうであるように、かえって事態の本質からは遠ざかってしまっているのかもしれない。
それでもアーティストごと、曲ごとに明るさと暗さの配分のようなものに違いを感じることがあるのも事実で、極端に明るいもの、極端に暗いものには歳とともにあまり手が伸びなくなってきている。少なくとも日常的に聴く音楽ではなくなっている。明るくあることそのものが目的になっているような音楽は、自分との接点が見つからず、右耳から左耳へすり抜けてしまう。暗さを美化する(「肯定する」ではない。肯定は明るさだ)耽美的で破滅的な音楽は、昔は自己陶酔に浸るのに使えたような気もするが、アーティストが個人的に抱えている闇を美術品のように保管して見世物にする姿勢に、徐々に裏返しのナルシシズムみたいなものを感じるようになった。
年を取るということは––––特に35歳あたりを過ぎてからは––––両極端を突き詰めることの中にではなく、その「あわい」の不確かさの中にリアリティを見出すようになることなのかもしれない。同じことは「幸せ」と「不幸」、「ポジティブ」と「ネガティブ」といった言葉についても言えそうだ。たいていの人は長く生きるほどに自分が美点においても欠点においてもさほど飛び抜けた存在ではなく、南国の海のように広く心地よい凡庸の中に収まっていることに気づいていく。だからこそわかりやすい二項対立に絡めとられてみだりに浮き足立ったり自分を責めたりすることなく、日々、名前のない領域で頭を働かせ、手足を動かすことが重要になっていく。
これが戦時中だとか高度経済成長期のような特殊な時期だったらもっとロマンティックに明るさや暗さを保ち続けることもできたのかもしれないが、現代は涙が出そうなほどドライな時代である。気分障害やパーソナリティ障害、PTSDや依存症を始めとする精神医学の知識が各種のメディアを通じて一般に広く知られるようになり、過去には個人の自由な性格傾向だと思われていたものが「症状」として捉えられることも増えてきた。それからやや遅れるようにして最近では健康な精神のあり方についても科学的に扱われる場面を多く目にするようになってきている。栄養や睡眠の質の向上、運動や瞑想の実践、セルフヘルプとしての認知行動療法やポジティブ心理学など、科学に裏づけられたウェルビーイング(幸福)追求の動きが盛んになり、幸福はなんとなくやってくるものではなく、かなりの程度まで自分自身の日常的な取り組みによって手にすることが可能なものなのだという考え方が広まりつつある。私が年を取ったというだけでなく、社会的にも明るさや暗さは以前のようなミステリアスな魅力を失い、芸術の対象になりにくくなってきているのだ。
ロサンジェルスのシンガー・ソングライター、デヴォン・ウィリアムズの『Carefree』(2008)と『Euphoria』(2011)には、絵に描いたような「極端に明るい音楽」が収められている。ここまで長々と書いてきた話を覆すわけではないのだが、私はこれらのアルバムにいとも簡単に明るく、幸せで、ポジティブな気分にさせられてしまう。「人生なんて何にも考えずに楽しくやっていくのが一番いいんだから」と、正月の酔っ払った親戚みたいに何の機微も陰翳もないことを思ってしまう。昼間に料理などするときにちょうどいいのでどちらももう長いこと聴いているのだが、その効力はいまだに失われていない。ただ明るいだけに聴こえる音楽になぜそんな力があるのか、なぜ彼だけが特別なのか、私にはよくわからない。
ざっと見渡してみても、我が家のレコード棚とCDラック(というのも死語になりつつあるのだろうけど)に『Carefree』や『Euphoria』と似たアルバムは1枚もないような気がする。明度の高さという点ではエヴァリー・ブラザーズやビッグ・スターやティーンエイジ・ファンクラブの一部の曲を挙げられそうだが、それらの曲では明るさの中心に切なさや懐かしさの感覚がどっかりと腰を据えている。彼らにはここにはいない誰か、今はない何かを思い焦がれる気持ちがあり、それを燃料としてその目も眩まんばかりの光輝を放っている。
一方のデヴォン・ウィリアムズは、曲によって多少の差こそあれ(屈託のある曲はどちらかと言えば月並みに聴こえてしまうものが多い)、アルバムの屋台骨となっている曲は概して透明で軽やかで、明るさ以外の要素をほとんど含んでいないように聴こえる。通常そこにあるはずのロマンスやノスタルジーの感覚が希薄なのだ。恋人について歌っていないわけではないし、過去を思い出していないわけでもない。歌詞を読めばむしろ綿密に恋人について歌っているし、過去のことを思い出している。しかし恋人や過去の不在感よりも、それらによってもたらされる喜び––––今この瞬間彼の中にある喜び––––に対してフォーカスが合いすぎるために、「自分と対象との距離によって気持ちが高まる」というラブソングにおける基本的な構図が働いていないというか、要は自分に満ち足りすぎているのである。
そのせいか、彼の音楽を聴いていると、まだ光と闇、希望と絶望、生(性)と死が背中合わせになった思春期の不安定な心を知らない、手に入らないものを切実に求めたこともかけがえのない何かを失ったこともない、小学生くらいの子どもの姿が浮かび上がってくる。その子どもは明るく、そのことに特に理由はない。生まれつきの気質がほどほどに良くできた親のおかげで順調に育ってきているだけだ。英語には「wide-eyed」(驚きなどのために目を大きく見開いた状態を指す語で、「純真な」、「素朴な」という意味もある)という言葉があるが、その子どもはこの世界という、自分を取り巻く、なんだか正体のわからない、しかしだからこそ限りなく魅力的なものに目を見張っている。何の構えも––––皮肉も打算も恐れも諦めも都合のいい解釈も––––なく、まっすぐな瞳でそれが自分に提示してくる事物を見つめ、好奇の心で受け取っている。
私が彼の音楽に惹かれるのは、世界を巨大なテーマパークのようなものとして映し出すこの透き通った視線、暗さを対立項として持たない、思春期以前の絶対的な明るさのためなのだと思う。大人が子どものような感覚を取り戻すには、旅をしたり、芸術に触れたり、酒を飲んだり、恋をしたり、趣味や仕事に没頭したりしなくてはならないため、普段は自分の見ている世界(my world)がだいたいそのまま実際の世界(the world)だろうと便宜的に考えてしまいやすい。何かを始める前からすべてが説明され、誰もがそれぞれの泡の中で生きている情報社会においては特に、「自分に知らないことはない」と錯覚するのはとても簡単なことだ。デヴォン・ウィリアムズの音楽はそんな癒着した2つの世界を優しく引き剥がし、それらが互いの境界線を維持しながら戯れ合い、浸透し合う感覚がどんなものだったのかを思い出させてくれる。
しかし当時すでに20代後半になっていた彼になぜこのような音楽を作ることが可能だったのだろう? 彼はなぜこのような音楽を作ろうと思ったのだろう? 彼はもともとパンク・バンドでデビューした人だし、結婚して娘ができ、父親を亡くした現在の彼は、もうここまで「純」な音楽を作ってはいない。そこには何らかの理由、道筋のようなものがあったはずだ。『Euphoria』の収録曲、「Revelations」と「Right Direction」の歌詞を並べてみると、その一端が垣間見えるような気がする。
No matter I’m changing I know I won’t leave you And if anything could happen I still can’t seem to turn it off Lost in a thought――― Euphoria, euphoria, time runs faster It’s nothing that rope’s too tight Because I must be tied I won’t resign to wonder たとえ僕が変わっていっても 君から離れることはないだろう もし何かが起こったら やっぱりそれをなかったことにはできなさそうだけど 物思いに沈む――― 多幸感、多幸感、時はぐんぐん進む ロープがきつすぎるわけじゃないんだ だって僕はつながれてなきゃならないんだから いつまでも好奇心をなくさないよ
I'm still hopeful of the future Though what I know now lets it shine less brightly One day we'll have children running through the house One day will there be less of a doubt 今もまだ未来に希望を持っている 増えた知識がその輝きを弱めてはしまったけど いつか僕らの家では子どもたちが駆けまわり いつか迷うことだって少なくなるはずさ
年を重ね、知識を身につけたことによって明るい未来を描き続けるのが難しくなってしまった彼がそれでも希望を失わずにいられるのは、現在の恋人との関係が、よく歌のテーマになるような一歩間違えれば奈落の底に落ちてしまうスリリングな初期の恋愛ではなく、そのもう少し後、互いの愛情を当たり前のものとして、所与として前提として考えることが許される最も円満な時期のものだからだろう。2人でいるときもそれぞれにくつろげるような、1人でいるときもいつも誰かに見守られているような、親の愛情を当てにすることができた幼少期と同じような自由さがよみがえってくる時期。そう、この頃の彼が作っていたのは、誰かと深く交際したことがある人なら誰でも知っている、あの恋愛における幸福な幼児退行についての音楽だったのではないか(この作用のためにいろいろと不幸なことも起こってくるわけだが)。
ただ、相手が親の場合と違って恋人との関係は双方向的で、相手に対する責任みたいなものも生じてくる。恋人との未来を約束しながら自分を可能性に対してオープンなまま残す彼の歌は、そのため見ようによってはある種の不穏さを、具体的には不倫の可能性を匂わせる、日常的な主張としてはなかなかきわどいものになっている。
だがそれを言えば、リトル・リチャードの時代から、その前のデルタ・ブルースの時代から、音楽はずっときわどいことを歌い続けてきた。いかなる状況においても人間らしく自由に心を羽ばたかせたいという願いを、ありありとした形で共に分かち合うこと。それが音楽の持つ最も重要な役割の一つだし、それにそのスタート地点以外のどこから一人にとっても二人にとっても悔いのない関係を作り上げることができるだろう。相手との絆(「Revelations」では「ロープ」という言葉で象徴的に表されている)によって助けられているにもかかわらずそこから解き放たれることを求めてしまう罪悪感から逃れるために罪のない明るさをあらかじめ否定してしまうとしたら、人はいったい何を拠りどころとして長い人生を乗り切っていったらいいのだろう。生きた人間関係は生きた人間と同様、本質的に安定を欠いた、本質的に矛盾したものなのだ(もちろん現実に自由な行動を取るかどうかはまた別のお話である)。
音楽は矛盾した人々によって奏でられ、矛盾した人々によって耳を傾けられ、両者を魔法のような力で受け入れ、解放してきた。デヴォン・ウィリアムズの音楽に魔法があるとすれば、それは彼のエゴのなさだろう。上の歌詞からもわかるように、彼は今の自分の明るさが自分一人の力によるものではなく恋人との関係の中にあるものであること、そしてその明るさを全身で体現するのが自分ではなく次の世代であることを知っている。1人で思い悩み、行き詰まっているときに誰かと一緒にいるだけで何の答えもなく解決することがあるように、『Carefree』と『Euphoria』は「他人とともにあること」それ自体がどんなに人の心を羽ばたかせるものなのかを教えてくれる。誰かと光を交わし合い、それをまた別の誰かに受け渡しながら、私たちは深い闇を乗り越えることができるはずなのだ。そしてそれらが本当は光でも闇でもなかったこと––––世界と私たちのあいだの名前を持たない真剣な戯れであったこと––––に気づくことができるはずなのだ。