2023年のベスト・アルバム4枚

Greg Mendez『Greg Mendez』

「シンガーソングライターによる親密な曲集」は毎年世界中で星の数ほど作られているのだろう。おそらく最も競合の多い、供給過多のこの分野で、グレッグ・メンデスは一見何の変哲もない音楽を作っている。しかし細部まで丁寧な作りと全体を通じて一貫したトーンが耳に馴染み、気づいたときには繰り返し聴いていた。人生のさまざまな出来事を経て身体がこの音を出すのにちょうどいい状態になったという印象で、低く伏せた姿勢から静かに控えめに、まさに呼吸するように歌っている。そしてその呼吸は深い。脳裏に立ち現れてくるアイディアから多くを削ぎ落とし、本当にいいと感じられるものだけを残したという小さな表現には真実が宿っている。「60年代ポップオタク」を自称する彼だが、Y2Kファッションが流行するのと時を同じくして新世代アーティストたちが口を揃えて影響源に挙げるようになったエリオット・スミスもまたここでは大きな影を落としている。

この作品が一定の沈潜した調子を保っていることには彼の「依存」にまつわる過去も無関係ではなさそうだ。それはひとつにはヘロインやコカイン、アルコールなど薬物への依存であり、一時期は住む家もなかったという彼はドラッグユーザーたちの溜まり場で逮捕されたこともある(収録曲「Maria」はこの時の顛末を歌っている)。さらには家族や友人や恋人との有害な共依存関係もまた歌詞の中に頻繁に表れており、これらはどちらも「自分にとって良くないとわかっていながら離れられない状況」という意味で共通している。そんなジェットコースターのような人生を歩んできて、親類や現在の妻の助けもあって2015年以降はクリーンになり、中断していた音楽活動も再開することのできた彼が安定した表現を求めるのは自然なことだろう。音楽を作ることから何を得ているのかというStereogumの質問に彼はこう答えている。「それに依存しているところはあると思う、正直に言えば。間違いなく強迫的な感じはある。いつも楽しいわけじゃない。いつも楽しいと言いそうになったけど、いつもではない。でも時々は楽しいし、それは他のところでは得られない感覚でもある。うん、だからやり続けているのだと思う」。依存には楽しいものとそうでないものの2種類があり、楽しい依存には必ずある条件がついてくる。それは何ものにも依存できない、楽しくない時間を進んで引き受けることなのだ。

工藤祐次郎 『ボン・ボヤージュブギ』

どんな言葉で説明しても物々しくなってしまうくらい何気ないものを淡々と飄々と提示し続けている芸術家。特にミニアルバム『暑中見舞い』(2019)で装飾的な要素を一気に削ぎ落とすことによってもたらされた表現上のブレイクスルー以降は、個性的でありながらエゴを感じさせない、誰もが気軽に出入りすることのできる余白を持った音楽を発見した感がある。ギターも全然頑張ってないようだけど何度も聴いているとけっこうテクニカルであることがわかってくる。でも決して技量を誇示することはなく、そのクールジャズにも通じる気取らなさがちょっとめずらしいくらい彼の演奏を聴いていて楽しいものにしている。日本の多くのミュージシャンをなぜか蝕んでいるように見える「音楽はオシャレでなくてはならない」という強迫観念とも無縁。力の抜けた自然な歌には総じて聴く人を自由にするものがある。大昔の中国の詩人というのはこんな感じだったのではないかなんて思ったりする。

本作『ボン・ボヤージュブギ』では、キャリアで最も聴かれている「ゴーゴー魚釣り」の時からさらに円熟味を増した「ベルウッドの光」を中心に日常の風景が描かれているが、そこにアルバム全体をうっすらとまとめている月や星、太陽といった宇宙のモチーフが地続きで現れ、現代社会で生きることの孤独を照らし出す。20代半ばにひきこもり生活をしていたという彼が繰り返し歌ってきた寂しさのテーマは演奏・歌詞の両面において含みのある表現に託されていて、深い意味を読み取ろうとすることも、何も考えずに聴くこともできる幅を持っている。このせわしない時代に誰かのアルバムを1枚通して聴こうと思うとき、自分はその人の音楽を聴きたいというよりは、その人から見えている世界に包まれていたいのではないかと思ったりすることがある。そして曲の良し悪し以前にとりあえずそこでしばらく腰を落ち着けたいと思わせる音の世界を作れる人は少ない。年末の下北沢でのライブも初めから終わりまでずっと楽しかった。

Judgitzu「Sator Arepo」

生きていると頭の中に何かしら狂ったものが訪れることはあるし、日本を含む世界各地では今もあちこちで狂ったことが起こっているのに、街というのはたいてい驚くほど変化のないもので、それが安心のもとになったりもすればキツさのもとになったりもする(だからデモなどは街の景色を変えるという意味でも大事なのだと思うが)。内面と世界の狂気にサンドイッチされた普通の街を歩いているとき、このアルバムを聴くと妙に頭の平衡が取れてしんとした気持ちになった。心の波立ちを直接静めてくれるというより、音で視野を染め、景色の表層を酸のように溶かし、その実相を浮かび上がらせることで、場違いの空間にまぎれこんでしまったような感覚を和らげてくれた。当然ながら自分だけが特別なわけではなく、道行く人たちも一枚皮をめくればみな同じようにどこかしら狂ったもの、少なくとも狂うポテンシャルを持っているものだ。自分の狂気に蓋をするのが上手な人と下手な人、自ら進んで蓋を開ける奇矯な人という違いがあるだけである。人間は誰もが壊れやすいから共同体を築く。

ジャンルとしては3年前にライアン・トリーナーの『File Under UK Metaplasm』を聴いて以来気になっているタンザニア国外(フランス)からのシンゲリ解釈枠。音楽の上層(メロディー)と下層(リズム)をそれぞれ人間の精神と肉体に対応するものと考えるなら、リズムがほぼすべてのシンゲリはメロディー偏重の旧来のポップ音楽を上下反転させて過激化させたボディー・ミュージックの極北として重要な位置を占めていると言えるのかもしれない(このアルバムのいくつかの曲ではちょうどポップソングで歌が入ってくるようなタイミングでビートが入ってくる)。「重要」と言うのは、人は自分の精神が考えていることは知っていても、肉体が考えていることはあまりよく知らないからだ。一部のジャーナリストが分析しているようにイスラエルの常軌を逸した執拗な反撃が80年前のホロコーストの悪夢に根差しているのだとしたら、あるいはより広く、かつてアストリッド・リンドグレーンが主張したように戦争や虐殺など世界にはびこる巨大な暴力の根本原因が児童虐待にあるのだとしたら、平和のためにアプローチすべきはトラウマの記憶、頭ではなく身体の記憶であり、身体の中に眠っている声にならない声を目覚めさせ、それを誰もが抱え得るものとして余すところなく受け入れてくれるこのような音楽こそが求められているのではないだろうか。

Two Shell『lil spirits』

以前レビューしたときからさらに1曲増えて全7曲、EPというよりはほぼアルバムの長さになったのでここにも載せてしまう。孤独という、それを感じている人に恥の感覚をもたらすと言われている、尖ったクラブ・ミュージックとは相性の悪い題材を見事に料理してみせた、上辺だけのカッコつけとは訳が違う本物の技量と人間性を感じさせるこの作品。アイデンティティの危機や自立の問題など、家族や社会から孤立した人が陥りがちな諸々の窮地を一人称の視点から果敢に描き出している。さすがは世界に先駆けて孤独担当大臣を設けたイギリスといったところだ。毎朝疲れ切ってベッドから出られず、友達からも連絡が来なくなった自分を「幽霊みたいな気分だ」と歌う「ghost2」(既存曲をサンプリングしている)が新たに1曲目に据えられ、EP全体のテーマをより鮮明なものにしている。

自分の心と向き合うことは恐ろしい。しかもそれは地味すぎるうえに時に英雄的な努力すら必要になる、割に合わない闘争だ。そんな一大事業にわざわざ乗り出す人間は少ない。それでも我々は自分の心に触れることを願ってやまない生き物であるようで、さまざまなフィクション作品や、社会・政治の動きや、所属している団体の命運や、他人の慶事やスキャンダルや、その他ありとあらゆる物語にその大変な作業を少しずつ付託して、代わりに、安全に、心の深い部分を探ってもらっている。しかしそれらはあくまで外部から与えられるレディメイドの物語にすぎないため、心の一部は回収されないまま残ってしまう。その心の残滓を「自分だけの人生を歩む」という個人的な営為によっても処理しきれないとき、人は孤立する。この作品がテーマとして扱い、一手に引き受けているのは、そんな孤立無援の魂たちだ。羊の群れを導く羊飼いのように、トゥー・シェルは日が暮れ、狼たちが現れる前に、その笛の音によって我々を安全な囲いの中へ連れ戻そうとしている。