前編はこちら
見知らぬ世界にはじき出される人々
トーキング・ヘッズは謎めいている。繰り返しを多用したトリッピーな音楽性で、歌詞も意味深なものが多く、ロールシャッハ・テストのように何とでも取れるようにも何かを明確に示しているようにも聴こえる。デヴィッド・バーン自身が「アート・ファンク」(p.47)と形容する彼らのスタイルは『Stop Making Sense』の時点までに完全に確立され、多くの曲は身体から目一杯の声を出して歌うだけの必然性を感じさせる気持ちのよい曲調を持っているが、その中で彼はときおり何かに駆り立てられているかのような差し迫った様子を見せもする。何かしら抜き差しならないことについて歌っていそうなのは伝わってくる。でもそれが具体的に何なのかは不透明だ。
歌詞の表面からかろうじて読み取れることは、トーキング・ヘッズには生活の端のほうに広がっている見知らぬ「外部」との境界線を跨ぐことについての曲が多いということだ。宗教的儀式に高揚して地面を転げ回る人々の姿が描かれる「Slippery People」、平凡に生きてきた男が衝動的に自宅を焼く「Burning Down The House」、自分の住む街で戦争が始まってしまう「Life During Wartime」、人生をずっと無意識のまま生きてきたことにある日突然気づかされる「Once In a Lifetime」など、いずれも本人の意思や理性とは無関係に、突如として訪れた「何か」によってほとんど暴力的に生活の連続性が絶たれ、日常が一変してしまう歌だ。ただこれらの状況も事実として淡々と物語られるだけで、どのような意図のもとに歌われているのかはわかりづらい。
わかっているのは、道理の通じない混沌とした異世界にはじき出されるとき、人の心は危機に陥るということだ。『Stop Making Sense』の最初の曲と最後の曲はこんなふうに始まる。
I can’t seem to face up to the facts
事実と向き合うことができなさそうだ
I’m tense and nervous and I can’t relax
緊張して過敏になってリラックスできない
I can’t sleep ‘cause my bed’s on fire
眠ることもできない、ベッドが燃えていて
Don’t touch me, I’m a real live wire
触らないでくれ、電線みたいに力がみなぎっている
「Psycho Killer」
Lost my shape, trying to act casual
いつもの自分を見失った、何でもないふりをしているが
Can’t stop, I might end up in the hospital
止められない、病院に担ぎ込まれるかもしれない
Changing my shape, I feel like an accident
俺は形を変えていく、事故みたいな気分だ
「Crosseyed and Painless」
自閉スペクトラム者のロールモデルとしてのデヴィッド・バーン
実はこれら2つの歌詞については、ある英語圏の批評家が「どちらも圧倒された自閉症者が『普通』の非自閉症社会に馴染もうと苦闘しながらメルトダウンの瀬戸際をぐらついているものとして解釈することができる」と指摘している。また『Stop Making Sense』でのデヴィッド・バーンの振る舞いについては、「彼が公演を通じて平常通りの外見をどうにか装えているのは、歌詞と思わず出てしまう反復動作・発声のおかげだが、これらは時に彼の正体を暴露して自閉症のスティミングを思わせる」と主張している。「メルトダウン」は自閉症者が何らかの過剰な刺激に圧倒されて陥る一種のパニック状態のこと、「スティミング」は人が心を落ち着かせるために無意識に繰り返す身体動作で、特に神経発達症(発達障害)の当事者によく見られる行為のことだ。
デヴィッド・バーン自身も、正式な診断を受けてはいないものの、自分のことを軽度の自閉スペクトラム者として認識していることをこれまでさまざまな場面で語っている。
00年代の初めだったか90年代の終わりだったか、友人が自閉スペクトラムについての本を持ってきて、スペクトラム上にある人々のさまざまな側面について読んで聞かせてくれた。彼女は「デヴィッド、これってあなたのことみたいだけど」と言い、僕も否定はできなかった。少なくともスペクトラムのごくごく穏やかな端のほうにいることはね。
NPRによるインタビュー、2023年11月1日
僕は奇妙な若者だった––––境界例のアスペルガー症候群だったと思う。
2006年、自身のブログで
(自閉スペクトラム症についての質問に対して)それが僕のスーパーパワーなんだ。僕はこいつを使うことができる、自分のやり方で。今は以前と比べてだいぶ社交的になったしリラックスもしてるけど、やっぱり利用できることはある。グレタ(・トゥーンベリ。同じく自閉症者として知られる)が言うようなことだね。一人きりでいること、何かに集中することが苦もなくできるっていう。集中して、他の起こってることに何にも気づかないまま、1つのことにただ専念できるんだ。
ポッドキャスト番組「3 Girls, 1 Keith」、2020年4月21日
学生時代にはドラマーのクリス・フランツがデヴィッド・バーンの非社交性をからかって当時一緒に組んでいたバンド「The Artistics(芸術的な人々)」を「The Autistics(自閉的な人々)」に変えたほうがいいんじゃないかと言っていたという逸話があったり、ニューヨーカー誌は1984年、『Stop Making Sense』公開時のレビューで、「バーンは内気な、現実離れしたSF的な雰囲気を持っていて、何かしら理解不能な、ほとんど自閉症的なところがあるが、彼は自閉症を楽しいものにしている」と、現在の感覚からするとやや不穏当な表現ながら彼の自閉性を早期に感知していたりもしたが、上の引用の通りデヴィッド・バーンがそのことを明確に自覚するのは世紀の変わり目ごろ、トーキング・ヘッズの解散後だいぶ経ってからである。それでも彼は定型発達者たち(発達障害ではない人々)が作るマジョリティのための社会で感じていた名状しがたい生きづらさを音楽に託していたのではないか、という新しいトーキング・ヘッズ観が最近になって出てきている。ある自閉スペクトラム者のファンは初めて「Psycho Killer」の冒頭部分を聴いたときのことを昨年こう振り返っている。
それはまるでこの男の人が私に直接歌ってくれているかのよう、時空を超えて私の魂を見透かす力を持っているかのようだった。それはまるで私のような人間であることがどういうことなのかを彼が知っているかのようだった。苦悩に苛まれた、17歳の、不眠気味で、未診断の自閉症を持った女の子であるということ。
また別の自閉症当事者は、「なぜデヴィッド・バーンは自閉症コミュニティにおいて重要なロールモデルなのか」と題した記事の中で、デヴィッド・バーンが活躍することの意義について書いている。
自閉症の人々は十分なレプリゼンテーション(訳注:特定の集団の存在が文化や政治など社会的な場面において適切に表現・代表されること)を得られていないし、たとえそういうことがあったとしても、たいていはひどいレプリゼンテーションだったりする(定型発達の人が映画やテレビ番組で自閉症者を演じることとか)。自閉症の人々はたいていとんでもなく馬鹿かとんでもなく利口な人物として扱われていて、あまりに多くの人が僕らのための「治療法」を見つけることに終始している。(中略)重要なことをしたり多くのことを成し遂げたりした他の自閉症者を知ることができると、僕らは自分のアイデンティティをもっと誇ることができるし、希望を持つことができる。なぜならあまりに多くの人が僕らは人生において成功できないのだと、多くを成し遂げる能力がないのだと思わせようとしてくるからだ。デヴィッド・バーンが自閉症コミュニティにとって重要なロールモデルなのは、彼が自閉症をスーパーパワーとしてさえ見ていて、誰に落ちこまされることも、自己認識を変えられることもないからだ。彼は自分自身であることを恐れていないように見えるけれど、あまりに多くの自閉症者たちがエイブリズム(健常者優先主義)を押しつけられずに済むように人前で自分を隠したり定型発達風に見せるプレッシャーを感じている中では、その姿は僕らを力づけてくれる。
人の輪への帰還装置としての音楽
トーキング・ヘッズというバンドには、ニューロマイノリティ(神経学的少数者)として自分の意思とは無関係に––––マジョリティの無自覚な差別と排除によって––––他者化され、周縁化され、世界の「外部」に追いやられていたデヴィッド・バーンが、音楽のかたちでその苦しみを訴えるとともに、音楽を通じて人々と交わり、社会の一員になろうとした側面があったのではないか。そのように考えると、白人はパンクとハードロック、黒人はファンクとディスコというように民族性によって聴く音楽のジャンルが高度に棲み分けられていた当時の状況で、彼がなぜアフリカ音楽を取り入れ、バーニー・ウォーレルを始めとする名の知れた黒人アーティストたちを起用し、誰のことも「サイドメンバー」にしてしまうことなく全員が対等な立場で演奏する体制を取ったのかも理解できるような気がする。音楽について、彼は「信じられないくらい内気」だった自分が「会話に入っていく手段」(p.34)だったと記してもいる。
『Stop Making Sense』の全体構造について、昨年デヴィッド・バーンはThe Ringerにこう話している。
初めは不安で孤立した登場人物としての僕––––自分自身としての僕と言ってもいいかもしれないが––––がいて、次第にその人物は支えとなる小さなコミュニティの中にいることに気づいていく。そして少しずつリラックスし始め、不安は小さくなり、前よりも楽しめるようになる。
ショーが進むにつれ、音楽はファンキーになっていき、その外側にあるものとしての自己を維持するのが難しくなっていく。音楽に身を任せずにはいられなくなっていくんだ。
そのプロセスの一部は自分を失うということだ。孤立した個人という自分のアイデンティティを失うこと。それはまた「いや、自分はより大きなグループに属しているんだ」という感覚のことでもある。
この作品がやはり「音楽を聴くこと」をめぐって展開することがここでは本人の言葉から明らかになっている。孤立した存在がやがてコミュニティに受け入れられていくこと。『Stop Making Sense』が作品全体を使って描き出しているのはまさにこの物語、デヴィッド・バーンが音楽を通じて生きようと願った人生そのものである。キーワードは「頭」から「身体」への移行だ。
個人の頭にすべてが懸かった社会–––ライブ序盤
「音痴で引っ込み思案すぎる」という理由で中学時代に合唱隊を辞めさせられた苦い経験を持つデヴィッド・バーン。その半生につきまとってきた孤立無援さを表すように、31歳になった彼はたった1人、何もないステージに現れる。初期のトーキング・ヘッズの音楽––––「ほとんどが自省、不安、自分たちのいる世界に対する困惑についてのものだった」(p.48)と彼自身が振り返っている––––を代表するオープニング曲「Psycho Killer」でカメラに捉えられる彼のギョロっと目を見開いた表情は、「思索的」とも「神経症的」とも言えそうなものだ。タイトルの通りヒッチコックの古典映画をテーマにしたこの曲は、支配的な母親によって洗脳されるように育った結果、精神に異常をきたして連続殺人を犯してしまう人物を描いている。社会からの孤立がもたらす最悪の結果を歌う曲でライブは始まるのだ。
そこに1人ずつメンバーが加わっていくなか、「Heaven」では同じ曲や同じキスが寸分違わず繰り返される理想の場所としての天国を夢想し(自閉症の人々は一般的に反復を好むと言われる)、「Thank You for Sending Me an Angel」では人々を導くリーダーとしての自負について陽気に歌い上げ、「Found a Job」では退屈な社会を有意義に生きていくために必要な創意工夫についてアドバイスする。ここまでは歌詞の内容も比較的わかりやすい「歌もの」が並んでいて、デヴィッド・バーンがいかに彼自身の飛び抜けた才覚を活かしながら自らが望む通りの人生を形作ろうとしてきたのかがわかる選曲になっている。
このように頭というのは使いようによって人を良い方向にも悪い方向にも変えるが、個人の資質にすべてが懸かっている社会はそれ自体が残酷である。それは「あまりにも自由すぎる」社会であり、たまたま恵まれない環境に生まれ育ったり、何らかのハンディキャップを負っていたり、他の人たちと同じだけのチャンスが与えられない属性を持っていたりといった本人には選びようのない要因によって、人は簡単に排除され、幸せを手にすることを拒まれてしまう。デヴィッド・バーンの言う「世界に対する困惑」はそのような状況から生まれてくるものだったのではないか。
素晴らしく大きな身体と素晴らしく大きな頭–––ライブ中盤
メンバーたちがほぼ出揃って背後に黒い幕が下りる5曲目の「Slippery People」から身体性がキックインしてくる。ダンスの要素が急激に強くなり、「Burning Down the House」を経て「Life During Wartime」で最初のクライマックスを迎える。このあたりは体力的にも発声的にも負荷が高そうな曲ばかりだが、デヴィッド・バーンは危なげなく、決してポイントを外すことなく、求められる表現のために必要なエネルギーを過不足なく放射している。まさに1人のパフォーマーの人生におけるピーク・パフォーマンスといった感じだ。「Slippery People」の間奏のスキャット(サウンドトラック版2:40~)に象徴されるように、彼は音を繰り返すことのどこが気持ちいいのか、その表と裏を知り尽くしている––––おそらくは定型発達の人間には不可能なレベルまで。「現実のライブよりも音がいい」とすら言われるこの映画だが、バンドの演奏も緻密に組み上げられていて、ほとんど乱れが見られない。
ただこの作品の映像と音声には手が加えられていることは知っておいてもいいかもしれない。例えば冒頭のデヴィッド・バーンの登場シーンは後から追加撮影されたものだし、「Life During Wartime」の終わりに彼が観客に投げかける「誰か何か質問はある?(Does anybody have any questions?)」という最高におかしい台詞も編集スタジオで吹き込まれた音声である(もともとは「少し休憩を取ってすぐ戻ってくるよ」と言っている)。「Slippery People」でコーラスの2人がギターを弾く真似をしながらデヴィッド・バーンと向き合って踊るシーンは、複数のカメラのフィルムを使って実際の5倍ほどの長さに引き延ばされているという。
『Stop Making Sense』は明確な意思のもとに「作られた」映像作品であり、3夜ぶんの公演が1つのライブとして編集されているため、曲によって公演日が切り替わっていることがはっきりとわかるだけでなく、1つの曲の中で違う日の映像に入れ替わる部分があったり、音と映像が合っていないところがあったりする。厳密に言えば、この映画を通して体験されるコンサートは「なかった」とも言えるのだ。史実性を犠牲にして行われたこの切り貼りのプロセスは、しかしトーキング・ヘッズの音楽が語る物語を際立たせるための極めて意識的な操作である。照明を白色のみに限定し、衣装をグレーに統一し、楽器をマットブラックに塗装し、アンプ類を隠すという舞台上の工夫も、ほとんど観客を映さず、楽屋シーンやインタビューを差し挟まず、当時のMTVでよく見られた短いカットを繋ぐ編集を避けて長回しするという撮影上の工夫も、すべては余分な情報を削ぎ落として映像を抽象化し、映画館の観客たちを物語に浸らせるための試みだと言えるだろう。
続く「Making Flippy Floppy」と「Swamp」ではいくらか歌ものに戻る感じがある。しかし一度熱を帯びた身体がなかなか冷めないように、前曲までのビートは空気中に焼き付くように残っていて、これらの曲では「頭」と「身体」が均衡を保っているようにも、分裂しているようにも見える。「Making Flippy Floppy」では、こんな示唆的な歌詞が出てくる。
There are no big secrets
大きな秘密などない
Don’t believe what you read
読んだことを信じるな
We have great big bodies
俺たちには素晴らしく大きな身体があり
We got great big heads
素晴らしく大きな頭がある
社会で生きていくためには周囲に合わせて態度を変えながら(making flippy floppy)、嫌なことでもそれなりに受け入れていかなくてはならない。さもないとしまいには牢屋に入れられることになる。しかしだからといって与えられた情報を鵜呑みにしてしまう必要はない。私たちには一人一人に立派な頭と身体があり、それらを駆使して自分だけの人生を力強く生きていけるのだから。そういうことがこの曲では歌われている。やはり序盤と同じように人はそれぞれ独力で生きていくほかないと考えつつも、どんな個人にも生まれながらにして備わっている力を信じようとするこの人生観は、身体性が本格的にステージを支配し始める次曲「What a Day That Was」の最後で、より感覚的なかたちで表明されている。
We’re goin’ boom, boom, boom, and that’s the way we live
俺たちはブンブンブンとやっていく、それが俺たちの生き方
ブンブンブンとやっていく。何という歌詞だろう。私はこの部分が『Stop Making Sense』全体のメッセージを非常に音楽的に(擬音語という音に近い言葉を使って)要約しているように感じられて、また音楽全般がそれを聴く人々に理屈抜きで与える力について語っているようで、とても好きだ。この曲の演奏中ずっと、デヴィッド・バーンは痙攣するような動きを見せている。「Once In a Lifetime」でも繰り返されるその動きは、心とは裏腹に動き出してしまう身体の不随意性を端的に示すものであり、ここに至って身体の優位性は如実に表れてくる。
身体に取り込まれる頭–––ライブ終盤
ダンス音楽の先駆者たちを賛美するトム・トム・クラブの「Genius of Love」に続いて演奏されるのは「Girlfriend Is Better」で、『Stop Making Sense』の象徴にもなっているビッグスーツ(デヴィッド・バーンが日本で観た能の装束が発想の源になっている)が1曲を通して着用されているのは実はこの曲しかない。にもかかわらずこのコスチュームが映画やサウンドトラックのアートワークにも採用され、強い印象を残しているのは、その姿が作品の核心を物語っているからだろう。「頭を小さく見せたかったし、そのための一番簡単な方法は身体を大きく見せることだった。なぜなら音楽はとてもフィジカルで、しばしば身体はそれを頭より先に理解するからだ」と映画公開時の一人二役のインタビュー映像でデヴィッド・バーン自身が語っているように、身体によって音楽を理解し、頭で脈絡をつけるのをやめること(stop making sense)はこの作品のテーマになっている。
音楽を理解した身体が音楽と溶け合って一つになり、自分を閉じ込めるその輪郭を解き放つことで、孤立した人間は息を吹き返す。このことを歌っているのが続くアル・グリーンのカバー曲「Take Me to the River」だ。聖職者による洗礼の儀式を思い起こさせる原曲の「川へ連れて行ってくれ、水の中で洗ってくれ(Take me to the river, wash me in the water)」というサビの歌詞をデヴィッド・バーンは「川へ連れて行ってくれ、水の中に落としてくれ(Take me to the river, drop me in the water)」に変更して宗教色を弱め、自分一人ではなぜか水の中に入ることができない人物の歌に変えている。彼が人の助けを必要としている理由、それはトーキング・ヘッズ版「Take Me to the River」の「川」が他者とともに奏でる音楽を意味しているからだろう。デヴィッド・バーンはバンドというものについて、「それは大きなコミュニティであって、一度グルーヴに乗った演奏が始まってしまえば、音楽の世界が現れて、僕はそこに背中から落ちてぷかぷか浮かぶことができるんだ」と今回リリースされたブルーレイ版『Stop Making Sense』の特典映像で語っている。
振り返ってみれば、『Stop Making Sense』において最大の盛り上がりを見せる場面の多くはデヴィッド・バーンがコーラスの2人と一緒に歌っているときだ。「Slippery People」や「This Must Be the Place (Naïve Melody)」、「Once in a Lifetime」といった曲の最後の30秒間、彼がどれだけ他者の声の中に、音楽の川の中に、全身を沈み込ませているか、改めて聴いてみてほしい。周りに調子を合わせられなかったために合唱隊から追い出された少年期のデヴィッド・バーンの心の傷は、こうして長い時を経て癒しを得ることになる。
身体に耳を傾けることの意義について、臨床心理士の清源友香奈はトラウマを抱えた子どもの気持ちを直感的に理解できるようにするために描いた『理解と体験をつなぐパラパラ絵本』(2017)の解説でこのように書いている。
私たちは何かを経験すると、その経験を頭で理解すると同時に身体でも感じています。何か嬉しいことが起これば、頭で「嬉しいことがあった」と理解するのとは別に、身体の中にも喜びや楽しさ、温かさ、安心感といった嬉しい感覚が生じます。何か痛い目にあえば、頭で「痛い目にあった」と理解するのとは別に、悲しみ、傷つき、恐れや不安といった感覚が、痛みの体験として身体に残ります。そしてそれらの体験は、頭がどのように理解していようと、体験されたままの素直な在り方で身体に染みつくのです。筆者はこの体験されたままに生じる素直な感覚を“身体の声”と呼び、この素直な感覚が生じるところを“身体の次元”と呼んでいます。“身体の次元”で生じた“身体の声”は、誰からも耳を傾けてもらえないと訴えを募らせ、いつしか“身体の語り”となります。この“身体の語り”こそが、カウンセリングにおいて汲み上げられているものと言えるでしょう。
前編で書いたように「身体に少しずつ独自の動きの文法を発見させようとした」結果として生まれたダンスとともに進行する『Stop Making Sense』は、ここで言われている「身体の語り」、デヴィッド・バーンが長年にわたって募らせていた訴えと、音楽を使ってそれを汲み上げるバンドというカウンセリングの構図を描いているのではないだろうか。そしてその構図自体がまた音楽の川となって私たち観客を包み込み、私たち自身の「身体の語り」を引き出そうとしているようにも思える。この作品を監督したジョナサン・デミが強調したかったのは、そのような全方位的な癒しの物語だったのではないか。そのように考えると、彼がこの7年後、子ども時代のトラウマと直面する女性FBI捜査官を描いた『羊たちの沈黙』(1991)でアカデミー賞の主要5部門を独占したことも偶然とは思えないような気がしてくる。
ラストの「Crosseyed and Painless」でリン・メイブリーとエドナ・ホルトが髪を振り乱しながら頭を回す印象的な動きを見せるとき、頭は「ものを見て音の方向を聴き分ける」という基本的な機能すら失い、その役目を終える。頭は身体に取り込まれ、ダンスの一部になる。個人はコミュニティに受け入れられ、世界の営みの一部になる。
おわりに–––多様性の時代にこそ求められる共通性
トーキング・ヘッズは『Stop Making Sense』がリリースされた1984年を最後に、二度とツアーをすることはなかった。「どうやったらこれを超えられるかわからなかった」とデヴィッド・バーンは昨年ロサンジェルス・タイムズに語っているが、そこには上で長々と書いたように、彼の不安と困惑についての物語がバンドの物語となり、あり得る限りの幸福な音楽的結末を迎えたということもあっただろうし、結局のところ彼の物語は彼の物語であり、バンドのメンバーたちの物語ではなかったということもあっただろう。デヴィッド・バーンの自閉傾向は、のちにティナ・ウェイマスとクリス・フランツ夫婦が著書やインタビューの中で語ることになるように、バンド内の不和を生んでもいた。
言うまでもなくデヴィッド・バーンは未診断のニューロマイノリティとしてだけ生きてきたわけではない。例えば彼はスコットランド人の両親のもとに生まれ、2歳のときにカナダに、8歳のときにアメリカに移住した移民でもある(両親は当時のスコットランドでは歓迎されなかったカトリックとプロテスタントのあいだの「混宗婚」であり、専門性の高いエンジニアだった父親の職探しの事情もあって母国を逃れた)。クラスに溶け込むため、小さなデヴィッドは同級生たちには通じなかったスコットランド訛りの英語を矯正しなくてはならなかった。当時について「いくらかアウトサイダーのように感じていた。でもそれから世界というのはそれぞれに異なる人々で成り立っていて、それでもみんな同じ場所にいるんだと気づいた」と述懐する彼の幼い頃からの感覚もまた、トーキング・ヘッズの音楽に影響を与えたかもしれない。
マイノリティの人々が芸術を通じて行うことは単に彼らと同じタイプのマイノリティのための表現であるにとどまらず、世界について語り、それを根本から揺さぶるという芸術一般の機能とも密接に関わっている。ものごとには内部にいたままではなかなか見えづらい種類のものがあって、それが外部に追いやられた人々によって初めて目撃され、掴み取られ、作品として内部に還元されることがあるからだ。そのおかげでこの世界はこれまでどれだけ豊かになってきたのだろう。あなたの好きなあの小説家も、世界的に有名なあの俳優も、遠い過去に功績を残したあの画家も、公表されていない(場合によっては本人も気づいていない)少数者性を持っているかもしれないのだ。
にもかかわらず、彼らの貢献の裏にある痛みはどれだけ見過ごされてきたのだろう。
何らかのマイノリティ性が関わっているかもしれない芸術の素晴らしさを––––例えば「史上最高」という大きな言葉を使って––––多くの人に当てはまるものとして普遍化することにはリスクが伴う。それは特定の差別を長年にわたって経験してきた人にしかわからない苦しみや、それを耐え抜いてきた個人の努力を蔑ろにし、結果として彼らをそのような立場に追いやってきた社会を免責してしまう可能性がある。『Stop Making Sense』の終わり際にユニコーンのぬいぐるみを持った客席の子どもが映されるが、ユニコーンは(例えば大谷翔平がアメリカの野球ファンのあいだでそう呼ばれるときのように)畏敬のまなざしを向けられる唯一無二の存在の象徴である。しかしそれが架空の生き物でもあることは、私たちが日常レベルにおいて私たちの思う「普通」から外れた人々の実在性を想像しにくいことを意味してもいる。マイノリティの生きづらさはその存在が十分に考慮されないまま社会が構築されてしまうことから生まれるという意味で、本質的にはマジョリティが抱えている問題であるにもかかわらず。
お互いの違いを知り、それが本人にとってどんな意味を持っているのか理解する(make sense)ことは、多様な人々が住むこの世界から誰一人追い出してしまわないために何よりも大切なことだ。しかしそれは同時に世界の分断や利害の対立、目を背けたくなるような争いについて絶えず新しく知り続けることでもある。かくして不安と孤独が常態化する現代において『Stop Making Sense』が変わらず大きな反応を生み続けているのは、デヴィッド・バーンが少数者的感覚の持ち主であったからこそ人とわかり合うための拠り所とせずにはいられなかった、「でもみんな替えのきかない身体1つでなんとかやっていくしかない人間なのにね」という最小限の共通性への狂おしいまでの立ち返りのためではないだろうか。生きるということは、マイノリティであるかどうかに関わらず、自分は自分であって他の誰でもないという究極の少数意識と付き合っていくことなのだ。いつか死者という、この世界で最大のマジョリティの群れに加わるまでは。
『Stop Making Sense』は、私たちの全身を、そして人類全体を包み込む。その感覚を語るための言葉を、私はやはり「史上最高」の他に持っていないような気がするのだ。