トーキング・ヘッズ『Stop Making Sense』が「史上最高のコンサート映画」と言われる理由について考える–––【前編】音楽を聴くという孤独な行為の共有

A24が配給権を獲得したことで昨年4Kレストアされたトーキング・ヘッズの『Stop Making Sense』(1984)。今回の予告編でも謳われているように、40年前の公開当初から多くの批評家や音楽ファンが「史上最高のコンサート映画」と称賛し続けているこの作品を私はこれまで観ずにきてしまった。彼らの代表作『Remain in Light』(1980)は10代の頃から愛聴しているのに、もう1つのライブ盤『The Name of This Band Is Talking Heads』(1982)すら聴いていたのに、この映画およびそのサウンドトラックにはなぜかまったく触れていなかったのである。

この2月の公開でようやく観ることができた直後には「一回死んでから生き返るくらいよかった」、「いや、一回死んでから生き返りました」、「インスピレーションの塊」とバカみたいなメッセージをトーキング・ヘッズ好きの知人に立て続けに送るくらい興奮し、劇場でやっているこの機会にと結局4度も足を運んでしまった(すでに上映は終了したが、8月にはDVD/ブルーレイがリリースされ、配信も始まっているようだ)。実際のところ、コンサート映画をそんなにたくさん観たことがあるわけではない人間でも根拠なく「史上最高!」と言ってしまいたくなるような魅力がこの作品にはあった。しかし『Stop Making Sense』の何がそんなに最高なのだろう? いったい何がそのように断定的で、ある意味視野が狭いとすら言えそうなことを人々に言わせてきたのか?

映画とサウンドトラックのあいだの奇妙な違和感

『Stop Making Sense』に驚かされたことはいくつもあったが、その中の1つはライブ映像から成る「映画版」と、音楽のみを収めた「サウンドトラック版」の印象がかなり異なっているということだった。4Kレストアの公開に合わせてリマスターされたサウンドトラックでは、劇中ではカットされた当時の演奏曲が追加されていたり、曲の前後のMCが含まれていなかったりといった小さな差異こそあれ、基本的には同じ音源が流れている(曲によっては異なるテイクが使われている気もする)。にもかかわらず、私にとって両者はまるで違う体験だった。率直に言ってしまえば、映画のほうが段違いに良かった。音楽そのものだって素晴らしいはず、というかコンサートである以上それが作品の中心であるはずなのだが、一度映画を観てから音だけを聴くと、なぜか魅力の多くが失われてしまうように感じられた。

確かに映像の場合は歌って演奏している人の姿が見えるという大きなアドバンテージがある。「この音はこの人がこうやって出してるんだ」とわかるのは面白い。演奏動作と流れている音の対応関係を見出すことで、個々の音を視覚的に聴き分けることだってできる。またコンサート映画では当たり前のことかもしれないが、歌詞という曲の世界に親しむための鍵となる要素が歌と連動して日本語字幕で表示されるのもありがたかった。普段聴く音楽の場合でも同じように翻訳が逐一私たちの眼前に現れることが当たり前になったら洋楽(特にヒップホップ)は今よりどれだけポピュラーなものになるだろうかと思ったりするくらい、音楽と歌詞の意味が同時に入ってくるのは気持ち良かった。さらに映画館で観る場合には本格的な音響システムという強力な武器もある。特にIMAXシアターの音圧と音の解像度は物凄かった。

しかし『Stop Making Sense』が映像とともに鑑賞すべき作品である理由はそれだけではないような気がするのだ。

音を聴き、演奏すること–––小さなループ

観ればわかる通り、『Stop Making Sense』は音楽映画であると同時にダンス映画でもある。最初の曲でデヴィッド・バーンがステージ上をよろめきながら歩き回る仕草から、フレッド・アステアの映画に影響されたというフロアランプとの戯れ、出演者のみならず観客やスタッフもみな踊っている様子が映されるフィナーレまで、ダンスの要素は全編を通じてふんだんにちりばめられている。

楽器の演奏は「聴く」という行為に基づいている。自分で出した音を聴き、他人が出した音を聴く。それらに基づいて次の音を出し、その音を聴いてさらにまた反応していく。演奏は聴く行為から切り離すことができない。それは常にアウトプットであると同時にフィードバックだ。手や足や口を使って出した音が耳によって聴き取られ、また手や足や口を使って音を出すこの一連の動きを仮に「小さなループ」と呼ぶことにしよう。聴くことと演奏することが混然一体となってぐるぐると高速回転し続ける、音楽の中で閉じたループ。

これはどんなアーティストのどんなライブでも行われていることだ。トーキング・ヘッズの場合で言えば、例えば1980年のローマでのライブなどは、のちにキング・クリムゾンに加入することになる超絶技巧のギタリスト、エイドリアン・ブリューの驚異的な演奏力のおかげもあって、音を聴き、演奏するという意味では『Stop Making Sense』よりも優れていると言えるかもしれない。おそらくこのライブの場合、サウンドトラックになって映像を失ってもさほど印象の差はないのではないかという気がする。

コメンタリーとしてのダンス–––大きなループ

一方でダンスは「大きなループ」を作り出す。音を聴いて踊り、踊りながら音を出すこと。このループはステージ上から延びていって大きな弧を描き、観客をぐるりと巻き込む直径を持っている。その直接の理由は、観客はふつう(手拍子やコール&レスポンスなどごく浅い、あるいは一時的な手段を除けば)演奏に参加することはできないが、ダンスには参加できるということだ。観客が音楽を聴いてどのように身体を動かしているかは、それを見ている演奏者たちのその後の演奏にもいくぶんかの影響を与えるだろう。だがここにはもう1つ、いま挙げた理由とはちょうど逆向きの矢印を持つ、観客の音楽体験という意味でより重要な別の理由がある。それは、ステージ上で演奏者たちが行うダンスは、彼らの「音楽の聴き方」を観客に伝えるということだ。音楽に反応する演奏者の動き一つ一つを見ることで、私たちは彼らがその音楽をどのように聴いているのかをうかがい知ることができる。

ライブ中の音楽家たちは音楽のパフォーマーであるだけでなく自分たちが演奏している音楽のリスナーでもあり、その意味では私たちと同じ立場にある。しかし彼らはプロのミュージシャンだ。卓越した演奏家はいつも必ず卓越したリスナーである(でなければ卓越した演奏はできない)。通常のコンサートでは優れた演奏を見せるだけであっても、身体表現の素養さえあれば、彼らは優れた聴き方を見せることもできる。音楽批評家が文章を通じて発する「この音楽はこういうふうに聴くと面白いよ」というメッセージを、身体の動きを通じてその場で直感的に観客に理解させることができるのだ(オーケストラなどでは指揮者の動きがこの機能を果たしている場合も多いように思う)。

上述の通り音楽は「聴くこと」に基づいて演奏されるので、音楽自体も演奏者の「音楽の聴き方」を伝えはする。ただこの場合の「音楽の聴き方」が音楽そのものと一体化していて、アクション(演奏)とリアクション(聴くこと)の区別がつかなくなっている一方で、ダンスは比較的純粋にリアクションのみについて語ることができる。ダンスは音楽とは別個の表現形態として、音楽の外側から音楽について語るからだ。ダンスは観る側にとっては視覚的な表現であり、聴覚的表現である音楽とは別のルートを通って私たちのもとへやってくる。

「音楽を聴くこと」をめぐるエンターテインメント

もちろんステージ上のダンスはただの見本のようなものであって、観客は必ずしもそれに従って音楽を聴く必要はない。しかし良い音楽が聴く人の耳を否応なしに引きつけるのと同じように、演奏者のダンスがあまりにも「良い」とき、私たちがその良さに抗うことは難しい。特にそれがトーキング・ヘッズの場合のように現在演奏されている音楽を作曲した著作者(オーサー)本人たちによるダンスであるとき、その音楽は彼らの聴き方つまり音楽的感性があって初めて存在し得たものであるため、ダンスは音楽の起源を表現するものとしてオーソライズ(権威化)されてもいる。私たちは無意識のうちに彼らの動きから、いま聴いている音楽の「公式の勘どころ」を学び、その最適な聴き方へと私たち自身の音楽的感性をチューニングされることになる。これが映画版『Stop Making Sense』の音楽がサウンドトラック版と比べて良く聴こえる最大の理由なのではないか。

トーキング・ヘッズの踊るパフォーマーたちは私たちと同じリスナーとしてもステージ上に現れ、「音楽を聴く」という私たちが普段個々でやっている行為を可視化し、優れた音楽を提示するのと同時に私たちの聴き方を最適化していく。『Stop Making Sense』は、音楽の世界において意外にもフォーカスを当てられることの少ない、「音楽を聴くこと」をめぐるエンターテインメントである。これは例えばスポーツ実況やゲーム実況など、特定のコンテンツにのめり込んで楽しんでいる「代理人としての鑑賞者」をあいだに挟むことによってそのコンテンツがより深く面白く体験される文化とも通じるところがあるような気がする。トーキング・ヘッズの場合の違いは、その鑑賞行為をコンテンツ提供者自身がやっているということだ。

ふむ、しかしダンスそのものは彼らの後にも先にも無数のミュージシャンたちが取り入れてきた手法である。トーキング・ヘッズだけが特別であるわけではないのではないか?

完成度の低い、脊髄反射としてのダンス

少し注意して見てみると、『Stop Making Sense』におけるトーキング・ヘッズのダンスには2つの特徴があるように思われる。1つはそれがものすごく簡単ということだ。彼らの動きはどれも何の専門技術も必要としない。それは多くの人に模倣可能で、その気になれば私たちはすぐにでもデヴィッド・バーンやティナ・ウェイマス、コーラス隊のリン・メイブリーやエドナ・ホルトと同じ動きをすることができる。たとえ実際には身体を動かさなくても、脳科学で言うところのミラー・ニューロン(他人の行動を見ることで、それをあたかも自分がしているかのように感じる脳細胞)の働きは、難しいダンスの場合よりも活発になりやすそうな気がする。

もう1つは、彼らのダンスは音楽に対する素直な反応のように見えるということだ。一般的な「歌って踊る」音楽グループでは、ダンスは綿密な練習を通じてあらかじめ身につけた振り付けとして、音楽が持っている世界観の一部になっていることが多い。音楽に合わせて踊る以上、この場合にもダンスには「反応」としての側面が残るが、構築性の高い複雑なダンスは音楽と一体となった総合的な舞台表現として「発信」の効果が高くなるため、パフォーマーの「音楽の聴き方」を伝える力が弱くなり、上述の大きなループを生みにくい(難易度の高いダンスを見せるK-POPグループたちの中でNewJeansが躍進した理由の1つとして、彼女たちのダンスが相対的にユルかったこと、つまり「発信」よりも「反応」に重きを置くことでリスナーの側に立ち、音楽をより楽しく聴こえさせたことがあるように思う)。

『Stop Making Sense』のダンスも基本的には事前に用意された振り付けである。デヴィッド・バーンは昨年日本語訳が出た著書『音楽のはたらき』(2012)の中で、『Stop Making Sense』ではそれ以前のツアーやリハーサルで自然発生的に生まれていった動きのうち特にうまくいったものを採用したと語っている。しかし「自分の身体に、少しずつ独自の動きの文法を発見させようとした」(p.53。以下、ページ数を示す引用はこの著書から)と彼が言うその振り付けは、走ったり、行進したり、寝転んだり、顔の表情を変えてみせたりと、「ダンス」というよりは「運動」とか「パフォーマンス・アート」という言葉を使いたくなるようなちょっと変な動きだ。そこには流れるような一連の身体操作からなるダンスが持つ洗練や優美さは一切ない。それは「音楽を聴いた人間の身体に起こる現象」と呼びたくなるほど反射的で、衝動的で、断片的で、どこかしら笑いを誘う場違いなものがある。

完成度の低い、脊髄反射としてのダンス。他の多くのアーティストたちとは一線を画す『Stop Making Sense』のダンスのこうした特徴がトーキング・ヘッズの「音楽の聴き方」を鮮明に表現し、観客をその音楽的感性の中に強く巻き込んでいるのは間違いなさそうだ。

でもなぜ私たちはこのコンサート映画に感動するのだろう。たとえトーキング・ヘッズの感性に巻き込まれたとしても、その先に何もなければ心を動かされることはないはずだ。彼らが自分たちの「音楽の聴き方」を基に創造した音楽は、何を訴えているのだろうか。あるいはもっとシンプルに、こんな質問に置き換えてもいいかもしれない。彼らにとって音楽とは何なのだろうか?

後編につづく