@「Letters」
言葉にするのが難しいけど何かしらとても新しいところのある曲。私は「フリークフォーク」というジャンル名が喚起する音楽のイメージがあまり得意ではなかった。たぶんサイケデリアの薬液に漬けられたその薄く透明なアコースティック音楽に、60年代のヒッピー文化や70年代以降の新宗教運動に共通する、強いコミュニティ帰属感と曖昧な自他の境界、安易な達観のようなものを感じてしまうからだと思う。しかしボルティモアとフィラデルフィアのリモート男女デュオ@(アット)が2021年にBandcampでリリースし、2023年にリイシューしたアルバム『Mind Palace Music』からのこの曲は、音像そのものは従来型のフリークフォークを踏襲しているにもかかわらず、はっきりとした「個」の感覚を持っている。成熟した大人だけが抱え込むことのできる相反する感情のコントラストがあり、そこから始まる展開とドラマがある。そしてその物語が向かう先には実質を伴った希望がある。
歌詞はタイトルの通り手紙の形式を取っていて、昔の恋人に対して、今もまだ好きであること、初めて会った頃の自分は「私自身の友達」でしかなく、恐れのせいでちゃんと愛せなかったこと、今は「秘密は負け犬のもの」だと分かっていて、相手を「私の真実の中に、私の腕の中に」迎え入れたいと思っていることなどを伝える。音楽はその時々の個人の内面の表現というだけでなく、これまで誰もやっていなかったことを追求しようとする創造的な側面も持っているわけだが、この曲からそのような進取の精神が感じられるとしたら、それは自分の誤りを素直に認めて変わろうとする彼らの勇気のためなのかもしれない。ひとつひとつの声や楽器が中空から紡ぎ出された糸のごとく自由闊達な軌道を描いている一方、織り成される総体はまるで初めからこの形でどこかに存在していたかのような必然性を感じさせるよく練られた構成は、多くの逡巡を乗り越えて初めて辿り着くことのできる確信に満ちている。
Susanne Sundfør「alyosha」
「彼らは私を壊れた女だと言う/今は荒天の時だと言う/世界は狂気の沙汰だと言う/弱肉強食、すべては死に絶えようとしているのだと」と世間に渦巻くネガティブな思想に苛まれて絶望的な気分になっていた女性が一人の男性と出会い、本物の愛を見つける歌。ノルウェーを代表するシンガーソングライター、スザンヌ・サンドフォーはその男性のことをアリョーシャ・カラマーゾフ––––小説家ドストエフスキーが最後の作品で最後に希望を託した、心優しく利他的な精神を持つ主人公––––になぞらえて臆面もないカーペンターズ調で歌いきっている。時代性も何もあったものではないが、多くの芸術分野において欧米の主流派タイムラインからいつもきっちりと外れている北欧文化のまさに面目躍如といったところだ。アレンジの壮大さという意味ではなく、曲そのものが持つ展望の大きさという意味で大柄なラブソング。
松田聖子ではないが愛というのは電気と似ていて、電源と機器があってもそのあいだに行きと帰りの配線がなければ何も起こらないように、誰かに受け取られ、自分のところに戻ってきて初めてその存在を確認できるようなところがある。男性が歌い手に愛を与える歌詞を持ち、歌い手がそれを歌うことで同じものを彼に返そうとするこの曲では、そんな幸福な愛の循環が実現している。少なくない人々が耳を塞いだまま自らの主義主張を押し通すことによって得られるその場限りの「勝利」に溜飲を下げているこのつまらない世界で、いろんな人に振り回されて困った顔をしながら、でも決して他者への信頼を失うことのないアリョーシャのような人の存在に救われてしまうなんてことは実際にある。それはまた思想としてのキリスト教に信を置くのではなく、かつてこの世界に生きた一人の尊敬すべき人間としてのイエス・キリストを模範としたドストエフスキーの信条でもある。サンドフォー自身の結婚式を撮影したと思われる映像も感動的。
The Japanese House「Touching Yourself」
ツアーのために離れ離れになった時期と、ロックダウンのために毎日顔を突き合わせることになった時期。どちらの状況でも同性の恋人との関係がうまくいかない。パートナーのほうはコンタクトを取ろうとしている。しかし遠距離でも性生活を持とうと自慰行為(touching yourself)の動画を送ってくれても、一緒に住むようになってから直接何かを言われても、この曲の女性はすぐに心が乱れて自分の殻に閉じこもるほかなくなってしまう。パートナーの顔を思い浮かべるとその身体に触れたくて、でも相手は物理的に遠すぎて、そうでなければ心理的に遠すぎて、死にたくなる。
本当に求めているのは愛情と注目だが、それらは求めてはいけないものだ、と曲も終盤になってから彼女は明かす。なぜ求めてはいけないのか? それについては歌われていない。おそらく彼女はただ一方的にケアされ愛されたいという欲求が恋愛関係を壊してしまうことを知っているのではないだろうか。それは子どもが親に対して求める、恋愛とは似て非なるものであり、大人同士の対等な関係が扱うには危うすぎるものであることを。親密な間柄を手に入れて初めて人が直面することになる自分の心という牢獄をジャパニーズ・ハウスこと28歳のアンバー・ベインは歌っている。
しかしこの曲の演奏はどうだろう。装甲車のように堅牢なリズム・セクションを筆頭に、どのパートも初めから終わりまで一糸乱れぬ正確さで、今にも壊れてしまいそうなソフトな感情を着実に安全に運んでいる。グルーヴは確実に担保され、サビは心地良いループ感を伴って戻ってくる。規則正しい生活と繰り返される日課が人の心の負担を減らすように、この曲の盤石なビートは好きな人と一緒にいてすらお互い自慰行為をしているにすぎないように感じてしまう孤独な心でもそのままの姿で生きていけるのだと信じさせるに足る力を持っている。「ポップソングはなぜポップでなくてはならないのか」という質問の本質的な答えをこの曲は提示しているように思える。それは人が生きていくためなのだ。
Joanna Sternberg「Mountains High」
マンハッタンの音楽一族に生まれ、幼い頃から特異な音楽的才能を見せていたジョアンナ・スターンバーグ。学校では一人も友達を作ることができず、大人になってからも人から騙されたり利用されたりすることが日常だったというが、その途中で自閉症とADHDを持っていることが明らかになる(性自認的には代名詞にthey/themを用いるジェンダー・ニュートラルでもある)。人生に明るい兆しが見えるようになったのはビル・エヴァンスやロバート・グラスパーらを輩出したニュー・スクールでジャズを本格的に志し、エリオット・スミスの影響も受けて自分の曲を作り始めるようになってから。同じくエリオット・スミスを敬慕するフィービー・ブリジャーズはスターンバーグのことを「エモ版ランディ・ニューマン。この人が触れるものは何でも黄金に変わる」と称賛している。
「確かなことは何も言えない/自分がどれくらい耐えられるのか/毎日が山ひとつ登るくらい大変/天衝く山を登るくらい」と歌うこの「Mountains High」では、強迫性障害の症状とそれをコントロールすることの難しさがテーマになっているという。もはや身体の一部と化しているとしか思えない雄弁なピアノはダニエル・ジョンストンを思い起こさせる実直な歌唱と同じかそれ以上に歌っていて、これら2つの「歌」は、小さな子どもが優しく面倒見のいいイマジナリー・フレンドと言葉を交わすように、それぞれの思いを交互に、同時に、吐露していく。その温かな交流に励まされるようにスターンバーグは「私たちはみんな秘密を持っていて、嘘で秘密を塗り込めてる/そしてそれを信じてる、自分の嘘を信じるなんて驚きだけど」という明澄な洞察に達し、自分に嘘をつくのはやめて、涙を拭って生きていこうと決意する。歌とピアノだけで易々と人生の核心を掴み取るその感性は鋭く、掴み取られた核心はどんな人も除外することのないおおらかな弧を描いている。2019年の「This Is Not Who I Want To Be」もぜひ聴いてほしい名曲。
Romy「Twice」
これは発明のような曲で、初めのうちはトラックの音数が少なく音量も抑えられているため、ヴォーカルがそこから遊離して、何もない空間を単独で舞っているように聴こえる。しばらくはアカペラを聴いているような感じすらあるほど、トラックの熱量はヴォーカルのテンションから期待されるものに何段階も足りない。しかし曲が進むにつれ、歌の熱が移るようにトラックが徐々に熱を帯びていく。曲全体の長さを使ってトラックが歌に追いついてくる。通常の歌もののダンス曲では音楽は初めから与えられたものとして存在し、それに乗って歌うことで歌の感情が生まれているように聴こえるが、この曲はその立場を反転させ、歌の中にあらかじめ含まれるノリ、歌に込められた思いが音楽を曲中でリアルタイムに引っ張り出している。そのようにして現れる音楽には「こうでなくてはならない」という必然性があるとともに歌とは別個のリアリティを持ってもいて、歌と混ざり合うことでその聴こえ方をがらりと変化させる。
ではこの曲の「歌に込められた思い」とは何なのかというと大きく分けて2つあるようで、ひとつは恋人のことを自分から振って他の人たちと付き合ったりもしてみたものの、どうしても忘れることができず、長い時間が経ってからその相手が自分にとって不可欠な存在であることがはっきりしてきたことへの驚き。もうひとつは、連絡を取ってみると思いがけず相手も同じ気持ちでいたため復縁し、相手が自分にとって意味するものの大きさをいまだ恐れながらも、二度もこんなことが起こるということはこれは愛に違いない、今度こそこの関係をいいものにしてみせるという意気込み。いわば歌詞・音楽ともに1つの関係にすべてを賭けようと決心し、愛を育む準備ができるまでの「遅さ」を描いた曲と言えるわけだが、これは恋愛のファスト化著しい昨今のマッチングアプリ社会においてとりわけ深い響きを持っているようにも思う。人には心に何かを根づかせるために必要とする自然な時間の長さがあり、またそのような本質的な変化はたいてい本人の意志を超えてやってくる(ように見える)外からの力によってもたらされる。人が変わっていくこのプロセスがそのままダンスフロアの興奮と熱狂を呼ぶための装置になっているのがこの曲の巧妙なところでもある。