Lucy Liyou「Credit」
両親との関係と、パートナーとの関係。人生における2つの最も密接な人間関係をどちらも失ってしまうとき、人はそれからどのように生きるのだろう。大学生の頃、彼女はトランスジェンダー女性としての自分を両親がありのままに受け入れてくれることを願ったが、その思いが通じることはなく、音楽家志望だった彼女は両親についての歌を作ってみる。数年後、彼女は人生で初めて恋をする。そして今、その男性との交際が終わろうとしている。両親に愛されたい、恋人に自分のもとにとどまってほしいという本来は無関係であるはずの2つの気持ちがなぜかオーバーラップし、彼女は未完成だったあの時の歌にもう一度取り掛かる。自分がいま感じていることや、彼らと過ごした何気ない時間の感覚を音楽の中にできるだけ正確に残しておく。かつて間違いなく存在していたはずの愛をこれからは一人でも感じられるように。そんな歌を聴きながら私は今日も暮らしている。
Silvana Estrada「Como Un Pájaro」
動画とSNSの時代が本格的に訪れてから10数年、ファンとアーティストのあいだで結ばれる親密さをテコにしたショービズモデルの定着によって、これまで長きにわたって親密さをほぼ単独で提供してきた音楽という芸術形態はいまやMVや歌い手の人柄、舞台裏の物語からネット上のリアクションまで併呑した総合メディア体験内の一プラットフォームにすぎない場合が増え、ある曲が純粋に音楽的に親密さを感じさせる内容になっているかどうかは問題になりにくくなった。世界にはそんな時代の変化への耐性が高い地域とそうでない地域があるように思うが、この曲では若者のあいだでも伝統音楽が広く受け入れられている、過去を忘れていない国でしかあり得ないような美しいバランスで歴史と現在が融合している。我々のものではないはずのその伝統(と言語)から身体に深く響く懐かしい哀感を感じられるほど、この曲は誰が歌い、誰が聴くかということから自由だ。
Jerskin Fendrix「Beth’s Farm」
20世紀の音楽はおおまかに「身体の音楽」として知られる。ジャズもロックもヒップホップもテクノも、ダンス文化との密接な関連の中で生まれてきた、強いリズムを持つ音楽だ。しかし近年アーティストの周りで立て続けに起こった幼馴染の自死と父親の病死によって損なわれてしまった故郷の記憶をテーマとするこの曲は、クラシック音楽的な歌唱とヴァイオリンによってその音楽史上の大革命を、100年分の音楽的達成を、あからさまに回避している。まるで肉体性さえ排除すればもう誰も死ぬことはないと言うかのように。いや、「ベスの牧場では誰も死なない」と、少年期を過ごした実在の牧場に言及しながら彼は実際にそう歌っている。もちろんそんな天国みたいな場所は––––人間の声によるアルペジオの伴奏が実演不可能であるように––––この世界にはあり得ない。だがそれは音楽作品の中ではあり得るし、私たちの頭の中でもあり得る。そうである限り、現実のあらゆる残酷さにもかかわらず、死者たちは生き続け、私たちは人を愛することができる。
Sharp Pins「When You Know」
写真というものの美しさは、時間を止めることができること、そしてその一瞬に含まれていた「良いこと」を時間をかけて確認できることにあると思うのだが、この曲からも一葉の写真と似たものが感じられる。メロディーやコード進行や曲の展開といった経時的な要素よりも瞬間的な「音の混ざり方」に魔法があるタイプの音楽で、曲が表現しようとしていることが冒頭で一瞬のうちに表現され尽くしている。もちろん音楽は時間芸術なので多少なりとも時間が経過しなければ存在できない。しかしその前提条件すら裏切ってしまうようなこの曲の強さは、私たちが時の流れとともに訪れた「良いこと」をどうやら永遠として体験し、記憶しているらしいことを教えてくれる。人間はいつも半分は時間の中に、半分は時間の外に生きている。私たちが年を取っていくことを––––場合によっては死すらも––––恐れずにいられるのは、どこかでそのことを知っているからではないか。
Greg Freeman「Gallic Shrug」
何も考えずに聴ける、敷居の低い曲。別の言い方をすれば、この曲は心からスタートしていない。自己表現から始まっていない。単に楽器を弾くところから、手癖のようなところから始まっている。歌い方にも既視感がある。本当にもう百万回は聴いたことがある、つまらない音楽としてこの曲は漕ぎ出す。しかしそのままぼんやり聴き続けていると、気づいた時には心と音楽はつながっている。いつの間にか、心と音楽は手に手を携えながら歩みを進めていて、音楽は私の心を好きなように動かせるようになっている。ただの音楽だったはずのものがいつ心に変わったのか、その境界線を見つけるのは難しい。散歩や料理や掃除や入浴や、文章を書くことなんかもそうだが、とりあえず何も考えずに始めてみたらいつの間にか始める前の気分とはまったく違う地点に連れていかれることが日常にはよくある。私たちが生きていて最も数多く救われているのは、たいていこういう何でもなさそうなことによってである。

