2025年のベスト・アルバム5枚

顕微鏡のプレパラートの中で細胞同士が言葉を交わしているようなバイオロジカルなダンス音楽。私たちは人や物に囲まれて暮らしていて、それら外部の事物との触れ合いを通して自分という存在の輪郭を確認している。食べ物の味、テーブルの触り心地、靴を通して感じる地面、着ている服の感触、人肌の温かさ、空気の匂いや温度。これらのものがなかったら、生きているという実感の大部分は失われてしまう。そのような意味合いにおいて、このアルバムは他の何よりも緻密に私が生きているという事実を照らし返してくる。可愛らしい赤ん坊や小動物から不気味な微生物や深海生物まで幅広く包含する「生」という現象の裏表がカラフルなテクスチャーで音声化されていて、別次元から析出されたような正体不明の生命エネルギーに鼓舞される感覚はキュビスム期のピカソの絵を見るときの感覚にも似ている。「現代の音楽」という野球場のように綺麗に開拓され整備されたフィールドでこれだけはっきりと個性的でいられるということそれ自体が立ち上がって拍手したくなるほど賞賛に値する達成だ。

「柔らかなソングライティング」という言葉がまず浮かぶが、実際のところどうやったらこんなものが作れるのか想像がつかない、ちょっと奇跡みたいなアルバム。感情や印象という移ろいやすいものを(ポップソングがよくやるように)記号的な「歌」という型にはめ込んでしまうことなく、逆に(ポストロックがよくやるように)意味を失くしたただの「音」に分散させてしまうこともなく、歌と音のあいだのグレーな領域に不定形なまま漂わせているポップなポストロック音楽。マイクとの距離を声や楽器ごとに繊細に調整することで空気感を含んだ奥行きのある情景を立ち上げ、曲調を逐次切り替えていくことで映画の編集のような場面転換の効果を生み、そうして動き出す物語の中にメンバー個々人の自我を沈み込ませてしまうことでこのアルバムは「1人の人間の心」ではなく「人々の心の交流」を捉えることに成功している。音楽制作には音楽の才能だけでなく「人生から美しいものを感じ取ることができる」という音楽とはひとまず関係のない能力も必要とされるわけだが、彼らは明らかにその能力に長けている。

加工されたボーカルやファルセット、スカスカな楽器構成による、現代のポップ音楽としては異様に軽い音像が、子どもの遊び場のように余白のある自由で実験的な雰囲気を醸しているアルバム。特に7曲目から9曲目までのオリジナリティは突出していて、これらの歌は一体誰の視点から歌われているのか––––女なのか男なのか、大人なのか子どもなのか、人間なのか宇宙人なのかすら––––わからない。とにかくその生き物は心を震わせていて、子どもが大人になっていく途中で入り込んでくるさまざまな事情によるレンズの曇り(カッコつけや成功への野心)とはまるで無縁な、人にとって生きる指針となるべきベーシックな喜びとベーシックな悲しみを訴えている。「さまざまな事情」というのは例えばセックスのことだが、しばしば取り違えられているようにそれは私たちの中にある最も深い願望ではない。セックスの先に、あるいはセックスとともにあるはずなのに、弱さに対する恐れのためなのか欲望に対する罪悪感のためなのか多くの音楽が無いことにしている心の問題がここでは扱われている。人間に対する真の洞察に基づいた、旧来の男性性に囚われている人には決して作れない作品。

ここまでは音楽シーンの隙間に生まれた芸術性の高いアルバム、コンクリートの割れ目からたくましく伸びてきた珍しい植物のようなアルバムを挙げてきたが、この作品は主にフォーク音楽の歴史という安定した地盤の上に立っていて、土壌に恵まれている割に咲かせている花のサイズも特に大きいとは言えない。その代わりにと言うべきか、憂鬱が憂鬱としてそのままの形で含まれている。日常と同じ高さの地面で歌われる、どちらかと言えば私小説やドキュメンタリーに近いこの種の音楽は図抜けてクリエイティヴというわけではないかもしれない。でも聴く側の私だって生活の大半は非クリエイティヴな頭で過ごしているし、むしろ普通にしていると徐々に落ち込んでくる低空飛行型の人間なので、自分の中に鬱屈しているものをシンプルに外に出してくれるものには惹かれざるを得ない。なんだかこれは甘い物をつい食べてしまう悪癖と似ていなくもない気がするが、カロリーが高いものを求めるのが人間の生存本能に基づいているように、このアルバムには「自分と似た他人の姿」という誰もが無意識に求めてしまうものが私にとって含まれているのだと思う。

スワンプブルースやスワンプロックといった古い音楽ジャンルにちなんで「スワンプテクノ」とでも呼びたくなるほど強く「沼(スワンプ)」を感じさせる、国土の4分の1が海抜0m以下にある水浸しの国からしか出てこないような音楽。示唆に富んだ雄弁な音楽だが、何時間でも続けて聴いていられそうな不思議な静けさもまた感じられるのは、この2枚のEPの中でボコボコと泡立っている沼が、魔女がかき混ぜる大釜として、火山から湧き出すマグマとして、徐々に集まっていく星屑の渦として、母親の子宮として、これから重大な何かを生成しようとしている存在に特有の「無頓着さ」を備えているからかもしれない。つまりそれは自らがもたらす結果についていちいち知る必要がなく、ただ結果とともに動いて光輝を放っている。けがれがなく、解釈不能で、記号として消費することを許さないこの音楽に耳を傾けてその意味を汲み取ろうとすることのスリルは、とりもなおさず今日もまた目を覚まして新しい1日を過ごすことのスリルである。いろんなことのある世の中だが、この作品のおかげで音楽のことも人生のことももう一段階好きになった。