claire rousay「head」
鬱症状のために一日のほとんどを寝て過ごしていたアーティストがベッドの中で作った曲。歌詞に希望はなく、メロディーはこわばり、歌声にかけられたオートチューンの強いエフェクトは人間らしい柔軟な心で暮らしていくことがいかに困難になり得るかを表しているかのようだ。でもその歌からは甘い慰めのようなものも感じられる。その甘さが彼女の内面からではなく、歌を通してどことも知れない外部からやってきているように聴こえるのがこの曲の好きなところだ。人は自分にまつわるすべてを認識しているわけではなく、誰かの絶望はその人にとって希望が存在しないことを必ずしも意味しない。自己表現であるとともに空気の振動として純粋に物理界に属してもいる音楽は、私たちが囚われている多様なかたちの心の牢獄であり、またそこから脱するためのスケルトン・キーでもある。
Hana Vu「Care」
強いエネルギーを持った安定感のある音楽で、初めて聴いたときはキャリアを積んだ30代の大柄な白人女性シンガーの姿を思い浮かべた。のちにこのミュージシャンがまだあどけなさの残る24歳のベトナム・韓国系アメリカ人であることを知り、伝わるかわからないけどピッチャーではなくバッターで成功する日本人メジャーリーガーが出てくるのに似た感銘を受けた。欧米のインディーロック・シーンで繊細な感性が前面に出た音楽性で知られるアジア系女性は何人もいるが、ここまで腰の据わった、腹の底から声の出た、誤解を恐れずに言えばオアシス的な王道感を持つ「大きな音楽」をやっている人は聞いたことがない。もちろんよく聴けば彼女の音楽が(オアシスやスラッガーの場合と同じく)繊細な感性に裏付けられていることはわかる。その繊細さを純度の高い肯定性に膨らませ、音楽の大通りのど真ん中を闊歩させてしまう強固な自信にスターの素質を感じる。
Dawn Richard, Spencer Zahn「Traditions」
母親が雨の日に鏡に覆いを掛けたり、兄がスポーツ観戦の日に決まった靴を履いていったりといった家族内の願掛けのことを「そんなの迷信じゃないか、たまたま運がよくてうまくいくことがあるだけじゃないか」と言ってくる人に対して、「私にとってそれは伝統であって、うまくいくのは天恵なんだけど」と答える歌。それだけの歌から何かしら真に迫ったものが感じられるのは、人から人へ受け継がれるこうした儀式が、子どもが親の言葉を真似て話し始めるときのような、「この人がそうするなら自分もそうする」という人間にとって最も原初的な依頼心のことを語っているからではないか。何の思考も介在しないコピー行動という意味では危うくもある。でもその危うさは人が他者の存在をまるごと取り込むことでしか自分というものを作れない生物であることの危うさであり、つまりは人と人がそれほど深く関わり得ることの美しさでもある。
Office Culture「Counting Game」
音楽の演奏もサッカーの試合やセックスと同じように時々刻々と状況が変化する現在進行形の事態であるので、そこにどれくらい没入してどれくらい客観視すべきかという問題が出てくる。没入しすぎたら全体が見えなくなってしまうし、客観視しすぎたらプレイがおろそかになる。この曲はその両方を同時に、高度に実現している。冷めた頭で興奮している。聴き手を突き放すようなコード進行に初めは違和感もあったが、だからこそ生むことのできる青白いグルーヴの本当の温度の高さが感じられるようになってきた。アウトロのピアノなんか普通の演奏を繰り返しているだけなのに何度聴いても格好良い。「自分がやっていることは一から十までわきまえてます」といった感じの超然とした、いかにも頭の切れそうなシンガーの声も好みだ(ピアノも彼が弾いている)。
Los Campesinos!「Feast of Tongues」
トゥイーポップ(まっすぐな曲調と無垢な歌詞に特徴づけられる音楽ジャンル)という「若い音楽」を長らくやってきたバンドが中年期を迎え、純真と老練の交わる潮目から現代社会の不穏な見通しに向き合う。独裁的傾向を帯びた政治家たちが台頭し、生まれ持った属性によって生命に優劣がつけられる歪んだ世界を前に、動植物にまつわる喩えを多用しながら、自分で自分の身を守ることが難しい弱者たちのために力の限り闘う決意を歌っている。国家の暴力にただ煽られているわけではない。イングランドに征服され、国として存続することができなかったウェールズのバンドとしての彼ら自身の出自を重ねることで、圧政者に祖国を支配される痛みを知る者の側からの賢明な視点も含み込んでいる。言葉本来の響きを活かしたクリアで体重の乗った歌唱が何よりその切実さを伝える。
